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ライターと名乗っておきながらこんなテーマで書くのはいかがなものか、という感じですが。

「ライター」を職業にしている人は皆どこかで感じていることではないかと私は密かに思ってるのですが。実際はどうなんでしょうか。

 

ライターの仕事としてベーシックなものは、「自分以外の誰かによる営み、あるいはその人自身を伝える」仕事です。

一般に言われる取材やインタビューです。

つまり、他者を伝える、これがライターのお役目。

イメージしてみてください。

これが普段の生活の大半を占めているとすると。

右隣の人から受け取ったものを左隣の人に手渡す作業、これをずっと繰り返してるイメージです。

その間、私は透明人間。右から吸い取ったものを左へ渡す。

イタコになっているわけです。いわゆる「媒体」ですね。

イタコをしている時間とはどういう時間か?

「自分自身を生きていない時間」ということです。

ライターの仕事の種類にもよりますが、こういったイタコ率が高い仕事が日常的な営みとなると…「自分はいつも当事者でない」そういう感覚が募ってきます。

もちろん、書き手のフィルターというものは必ずつきまとうので、純度100%の他者になりきる営みとは違うのですが、限りなく高い%で「他者を生き」ている。

 

何か、素晴らしいお店をつくった人がいたとして、そのお店の取材に行った。

その人の話を生で聞くと、リアルな感触を伴ったその人の経験を追体験できるわけです。生の言葉というものは、それはエキサイティングなものです。

だからイタコって実はすごく面白い。のめり込みやすい行為です。

だけど、お店をつくったのはあくまでその人。私は何の手も下していない。

常にそういう立場に立たされる。

 

物事を伝えるということは社会に必要とされていることですし、すごく意味のあることだと思います。

でもいつも傍観者でいる自分。人の人生をなぞるだけの自分。それって何なんだろう?という疑問が頭をもたげてくる。

何かしらの実感が欠落している。

自分の手で直接土に触れていないような。

それが、ライターという仕事について回る虚しさです。

私は、この虚しさを看過し続けられないように感じてます。

何度も言いますが、イタコ率(要はシンクロ率)は仕事の種類によるので、これがライターという仕事のすべてではありません。

だけど、私は美容業界誌をつくっていた前の職場で編集者をしていた頃から、自分の手で人の髪を切っている美容師の人たちを前にして「自ら手を下していない自分は何なんだ?」という思いをそこはかとなく持っていた。

(だから、「自分も切ってみよう」とウィッグの髪を切る練習をしていたことも瞬間的にだがあった。)

 

他者を生きる、それは役者の仕事と同じ営みなのかもしれないなと思います。

だとしたら、役者の人はそういう疑問を自分に抱いたことはないんだろうか?

役者の人は自分の体を丸ごと使う。私は指先だけを動かす。その身体性によってもたらされる生命実感が違うのでしょうか?

役者になったことがない私には到底分からないことだけど、とりあえず役者の人はその営みにまったく疑問を持ってないように見える、むしろ生き生きとした顔で全肯定しているように見える。

それは私がそう見てるだけなんでしょうかね。

 

話が逸れました。

だから私は、ライターという仕事は今後も続けるけれども、「ライター」という存在そのものになろうとする考えからは最近脱却しつつあります。

「ライターの自分」で人生を埋め尽くしたくない。

ライターという側面を持つ一生活者。それが一番しっくりくるあり方です。

生活者として、ちゃんと土に触れていたい。

そうでないと、何か大事なものを損なった人生になってしまうと私の体のどこかしらが直観している。

だから私は今、「働く」あり方を再構築しようとしています。

より「自分の人生を生きている」と感じられるあり方に。

 

それはどんなあり方なのか?また追々話します……って、前も言った気がしますね。

気付いてしまった。

というか、前々から薄々気付いてはいたけど、心が認めることを拒否してきたというだけだが。

 

私が1日に書ける原稿は1本だけである。

ライターという「書く」ことを生業にしている職業であるにも関わらず。

 

無理矢理やればできないこともないかもしれないけど、その場合おそらくものすごく精神をすり減らすことになる。

1本というのは、1つのテーマについてまとまった分量、という結構アバウトな意味合いだけど、2テーマになってしまったとたん、心がへたりにへたってしまう。

なぜかと言うと、それは分からない。

はっきりとは分からないけど、まとまった文章を書くということはものすごく集中力を要請されることで、一度それを使ってしまうとあとは集中力の電池切れになってしまう、そういう感覚がある。

朝から晩まで書き続けることは不可能なのだ。

ということは、「書く」ことをライフワークにする以上は生きている意味が分からなくなるような内容の仕事ばかりで埋め尽くすわけにはいかないということであるのと同時に、「書く」ことだけで生計を立てようとすることにかなり無理があるということだ。というのは、ライターの仕事というものは、一筆走らせれば数百万を引き出せるような、マジックが使える種類の仕事ではないからだ。かなり実直なお値段設定になっている種類の仕事だ。

「1日に何本も書けない」このことを認めてしまうとライターという自負が危うくなってしまう。だからこれまで、その事実から目を背け続けてきてしまった。

だけど、今は言える。

それは、私が「1日に1本しか書けない」ことを前提に、仕事というもののあり方を構築していけばいいんだ、という風にようやく思えるようになったから。つまり、「書くことは1日に数時間しかできない、それ以外の時間は書く以外の仕事をすればいい」ということだ。

その具体的な内容についてはまた別の機会に…。

 

ライターは、毎日毎日朝から晩までずっと書き続ける存在。

知らず知らずそんな風に定義して自分で自分をグルグル巻きにして縛り付けていた、ライターという呪縛を解くことが、つい最近になってようやくできたのだ。