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妊娠してから変わったことはほかにもある。初期からずっとあるのは頻尿。お腹の子に送る血液をつくるために水分が必要っていうのと、膀胱が子宮に圧迫されて出やすくなるっていうのがあって起こるらしい。ある程度お腹が膨らんできてから症状が起こってくるみたいだけど、私は妊娠が分かった頃の初期からなぜか頻繁におしっこに行きたくなっていた。おしっこを頻繁にしたくなるっていうのはけっこう大変だ。したくなるだけで実際はそこまで出なかったりもするので無駄な1回だったように思えたりもよくするし、第一、何回もトイレのための動作をするのが面倒だ。とくに冬。妊娠中というのもあり、冬は必ずズボンの下にタイツかレギンスを履いているうえ、腰痛を抑えるトコちゃんベルトというものを恥骨周りにつけているので、お尻周りが重装備になっていてゴソゴソしていて脱ぎにくい。ズボンを下ろし→タイツを下ろし→パンツに被さっている上の下着の裾をたくし上げ→ようやくパンツを脱ぐ、といった感じでいちいち何枚も剥ぐようにして脱ぐ作業をしなくちゃならないのがとても億劫だった。外出先でコートを着てるとより大変。脱いだあとは再び被服構造を元に戻さなければいけないので、その作業も再び一苦労。冬を抜けた今はちょっと楽になった。

ほかに、初期からめっきり変わったのは、毎回必ず夢を見る体質(脳質?)になったこと。産科医にそれを言ったら、「それは今回あなたが妊娠したことであなたが33年間生きてきた人生の経験なりが夢という形で何かを表しているのでしょう」というような答えが返ってきた。今から思えばけっこう親身になってくれた回答だと思う。私が思うに、妊娠中は眠りが浅くなりやすいのだと思う。初期は初期の具合の悪さがあり、中期以降はお腹の重みをいつも携えているという物理的な調子の悪さがあり、万全の体調で寝られるということがない。だからいつも眠りに不完全燃焼感が残る。夢を見やすい睡眠態勢にあるのだと思う。

初期の頃はとくに毎回嫌な夢を見るので起きるたびに疲弊、消耗していた。おそらく、精神的に不安が大きかったのだろう。というのも、妊娠が分かったとき、のちの夫が仕事で海外に行っており、戻って来るのが2週間以上先で、気持ちの面で頼れる存在が側にいなかったからだ。その間に彼にLINEで言ったので今でも覚えている悪夢が「なぜか私がキムタクになっていて、すごく便意があるのに興味本位から周りの人にその姿を覗かれていて、出したくても出せなくて苦しむ」というものだ。自分がキムタクになっているというのがまず謎だが(別にとくに好きだったわけでもないし、そこまで興味があるわけでもないから)、すごく出したいのに人に見られているために出てこない、というのがものすごく苦しかった。夢で感じる感情というのは、現実世界で感じているよりももっとダイレクトで鮮明だ。このときはめちゃくちゃ追い詰められた。本当に夢で良かった。今これを分析するとしたら、キムタクは置いといて、体の中にずっといる存在のためにままならなくなっている体調から今すぐ抜け出したい、早く出産してしまってすっきりしたい、という願望だったのかもしれない。素人考えではあるが。初期なので体調の悪さごと妊娠を受け入れる心構えができあがっておらず、とにかくこの体調から逃れたい、という短絡的な衝動があったのだろうか。

彼が帰って来てからは悪夢ではなくなった。とはいえ、幸せな夢でもない。奇妙で支離滅裂な夢ばかりで、悪夢ほどではないが気持ちの良いものでもない。たぶん快眠でないからだと思う。今日見たのは珍しく筋が通っている夢で、「通っている学校(場所は私が通っていた小学校だが、中身は通っていた中高、という設定)が突然、制服じゃなく私服で良くなり、自転車で通ってもOKになっていた。しかも入ってはいけないとされていた門から入るのもOKに。場面が移り、受けたテストの成績が2位でとても良かった」というような内容だった。この、制服や自転車や門などの制限を解除されたことによって一気に気持ちが解放され、「制限されて抑圧されている状態というのはものすごく精神的に不自由なことだったんだ」ということを夢の中でまざまざと感じていた。現実世界ではここまで自由不自由を感情的に実感することはないから、起きたとき、とても重要な体験をしたと思った。少し前は、「知り合いが隣の部屋に住んでいて、私がその人の部屋に勝手に私物を置いている。そのときも不在だと思い、勝手に上がり込んで私物を置いていたが、『もしや』と思って振り返ると、その人がいた。咄嗟に『ごめんなさい、ごめんなさい』と謝った」という夢を見た。私が私物を置いている一部始終をその人が見ていたことに気付いたときの背筋がビーンとなった感じと、すぐに「悪いことをした」と思う素直な態度が、なかなか現実では出てくる機会がないように思う。夢の中では私はとても感情的でいられる。

夢の内容は起きたときその都度夫に話している。結局その都度忘れていくのだが。そのとき湧き上がった気持ちをすぐ伝えられる相手がいるというのはとても安心できることだ。

妊娠する前、私は夜にランニングを始めた。というのは、当時タクシー運転手の仕事にチャレンジし始めたのだが(唐突だが本当。やりたいことがあって、その手段として思いついた。ペーパードライバーなのに合宿に行って二種免許を取ったうえ、東京の道を走るのに必須である地理試験もクリアした。)、その職場にいたタクシー運転手のおっちゃんたちの体を見て「あ、きっとタクシー運転手の生活を漫然と続けてたらこういう体になるんやな……」と悟ったからだ。お腹周りにでっぷりと円形のハリボテがついたような、脂肪肝が詰まってそうな体型のおっちゃんたちがワラワラといた。さすがにこうなるのはまずいという危機感から、毎夜近所の緑道まで自転車を走らせて、1時間ほど走る生活を開始した。この頃は、これまでとは違う景色の、新たな人生の季節へ転換していく兆しをそこはかとなく感じていたときだった。

けっこうストイックに2週間ほどランニングを続けたら、膝が痛くなってしまった。のちに夫となるスポーツマンの彼に聞いたところ、「しばらく走るのはやめた方がいい」とアドバイスされ、中断。しばらくしてまた再開したが、痛みがさらにひどくなってしまい、再度中断した。この痛みがなかなかやまず、お休み期間が長く続いてしまった。その間、風邪になったときがあり、風邪ついでに整形外科で診てもらったら「靴が良くない。底の分厚いスニーカーじゃないと関節を傷めるよ」と言われた。それで、近所の靴屋でランニングシューズを取り寄せ注文した。2度目に中断してから1か月ほど経っていた。

そして、ランニングシューズがまだ届かないうちに妊娠が判明した。産科医に「ランニングをしても大丈夫ですか?」と聞いたら「それはいつもしてることですか?」と尋ねられ、「いえ、最近始めたばかりです」と答えたら、「じゃあダメです。いつもしてることならいい。いつもしてない運動はしないこと」と言われた。自転車に乗るのもやめた方がいいらしい。東京の歩道はいきなり人が出てきたりしてアクシデントが多いからだ。タクシーの仕事も「よく休憩を取りながらやってください」と最初は言われたのだが、2回目のときには「車の運転は咄嗟の判断が必要で、緊張の連続にさらされる。それが母体に負担であるし、妊娠中は頭がボーッとしがちで集中力が低下するので事故に繋がる危険があり、あまりやらない方がいい」と言われた。このときから私はランニングも自転車に乗ることもしない生活に変えた。始めたばかりのタクシーの仕事も1か月後に辞める決断をした。

妊娠したら無茶な運動ができないのは想像できるにしても、自転車に乗れないとは知らなかった。車の運転もあまり良くないということも。要は「ヒヤリハット」が母体に良くないのだ。それでお腹の子がお腹に居続けられなくなったら、その母体の持ち主である私の責任だ。その自覚がちゃんと根付くまでに妊娠判明から約1か月かかった。妊娠体が平常の状態ではないということを、その体の持ち主である本人が受け入れるまでに1か月のタイムラグが生じた。毎日「何か辛いな…しんどいな…」と感じているのにも関わらず。タクシーを断念する前は、夫と一緒に住む物件をタクシー会社に通いやすい立地条件で探していたほどだった。脳みそというのはけっこう頑固にできている。

タクシーも辞め、引っ越しもし、入籍も式も終えたあとになって、あの膝を傷めた期間のことを不思議な気持ちで思い出した。「なんでかあのときずっと膝治らなかったな」と。そして、ハッと気付いた。「もしかして、あれが赤ちゃんを守ったんじゃ…?」膝の痛みがお腹の中の存在を無事に留めていたんじゃないか。命が発生したのは確かに走るのを休憩していたさなかだった。

この符号をただの偶然と思うには辻褄が合いすぎると私は感じる。神様が居るのかは知らないけど、神様的な、宇宙の何らかの計らいであるように感じている。大げさに聞こえるかもしれないけど、けっこうそういう風に人生はできているものだと感じる1つの出来事だった。

今私は妊娠中だ。生まれるまでもう少し。生まれるまで何が起こるか分からないのでここで書くのをためらっていたが、やはり妊娠中ならではの記録を残しておきたいと思ったのでやっぱり書くことにした。

妊娠してから知ったことが山ほどあった。自分が妊娠するまで妊娠に関してほとんど無知だったということだ。

まず、2〜4か月めくらいの妊娠初期がこんなに辛いものだとは全然知らなかった。私は悪阻がほとんどなかったにも関わらず、それでもいつも何となく一日中気持ち悪かったし、だるくてしんどかった。この「何となく」っていうのがくせ者で、「吐く」とかはっきりとした症状ではないから、へたってしまってきちんとした日常が過ごせないのは自分の頑張りが足りないからだという罪悪感があった。歩くのも、電車乗るのも、仕事するのも、家事するのもしんどくて、時間通りにきっちりと行動できなかった。でも今から思えば明らかに全然通常運行できない体調だった。というのは4、5か月めからの安定期に入ったら「何となくしんどい」のがなくなったからだ。あんな状態でサラリーマン妊婦たちが毎日満員電車に乗って会社に行って一日仕事してまた電車に乗って帰って、という生活を送っているというのが信じられなかった。ひえ〜〜〜と思った。私には到底無理だ。満員電車に乗る必要がない身分で本当に良かったけど、会社勤めしてる妊娠初期女性を解放してやれや〜怒 とも思った。この時期は本当にお腹の子の存続がかかってるので、この時期に休む制度があった方がいいと思う。安定期に入ってから仕事再開で。

電車では、とくにラッシュのときほど席を譲られることがなかった。妊婦マークが見えてないというのもあるけど、都心では優先席も普通の席と同様、空いた席めがけて座るのが当たり前になってて、「座るべき人がほかにいるかも」という配慮すら最初からしようとする意思がないみたいだった。だからマークも目に入れようと最初からしてない。それに、以前の私と同様、妊娠初期ほどお腹の子が危ないという知識もないだろうから、お腹が膨らんでないとマークついてても余計に譲ろうとは思わないだろう。「まだ膨らんでないから我慢しろ、こっちも毎日疲れてんだから座る権利ある」くらいの感じだろう。妊娠は「お腹にちょっと何か入ってるだけで、それ以外はほかの人と何も変わらない」という認識なんだと思う。まじで、妊娠体になると全然体調が違うから譲ってあげて欲しい。私も今まで配慮が足りなかったと思う。もうちょっと妊婦がいないか気を配るべきだった。これからは率先して譲る。

一昨日だったか、さんま御殿で「既婚女性vs未婚女性」みたいな主旨の番組を観た。出演タレントの扱いとしては明らかに既婚と未婚に優劣をつけていた(未婚枠に女芸人ばかりを当てていて自虐を促す演出だった)。こういう対立構造はいろんなメディアでよく見る。だいたい独身が既婚に対して引け目や劣等感を持っているような内容になっているのだが、そういう番組や記事を見ているといつも違和感がある。

なぜなら、私が独身だったとき、別に既婚者を羨ましいと思ったことがなかったからだ。だから友達の結婚に対して複雑な思いを持ったことがなく、参列した結婚式では100%祝う気持ちで友達を見送っていた。もう少し厳密に言うと、友達の結婚と自分自身とはまったく関係がないので究極的に言ってしまえば無関心、だからこそ無責任に100%「おめでとう!」と言っていた、という感じだ。

だって、その人はその人の人生の文脈の中で結婚や出産といったイベントを迎えているのであって、それは私自身の人生の文脈とは交わらない、全然別のものだからである。私自身、結婚願望はもともとあった。だけど、私の結婚はあくまで私の人生の中の1つのプロセスとして然るべきタイミングに位置づけられるものだ。他人の人生の「結婚」だけをぶった切って取り出して羨ましがる、なんていうことはちょっと脈絡がなさすぎて至難の業じゃないか?「おめでとう、本当に良かったね!でも私が今このタイミングで結婚、というのは違う。そうなっては困る」これが、人の結婚に接して自分に置き換えて考えてみたときのいつもの感想だった。

人の結婚を羨ましがる、ということは、その人の人生ごと羨ましがることと同義だと思う。そういう風にしか私には解釈ができない。世の中の人は、そんなにみんな周りの人の人生が羨ましいのだろうか?私の周りでよくあったのは、働き始めて数年、仕事もそこそこ一人前にできるようになってきて一段落、以前から付き合っていた人と30くらいでそろそろ落ち着きます、みたいなパターンだ。だけど私は30で独立したので、その時期に結婚はあり得なかった。ずっと会社に居続けてそのままやっていこうとしていたならそれくらいのタイミングで「一段落感」はあったかもしれないが、私としてはそういう人生は望んでいなかったし、ちゃんとフリーランスとしての基盤を整えてからじゃないと納得できなかった。ちゃんと「ひとり稼業としての自分」に完全になってから結婚したかった。

だけど、もし本当に「世の中の妙齢女性は人の結婚を羨む気持ちがあるのが一般的」だとしたら、みんなそんなに似たような人生経路を辿っていて、似たような人生を望んでいる、ということなのだろうか?そうなら、「私と同じように今まで歩幅を合わせてきたのに、私にはなくて、あの子にはもたらされているのは何で?」と思うものなのかもしれない。とすると、私と似たような経路を辿っている人が身近にいて、その人が自分よりも先に進んでいるように感じられたとしたらそういう思いを私もしたのかもしれない。

けど、周りにそんなに羨ましい人生を送ってる人って実際います?という話だ。職業も違えば生活スタイルも趣味指向も違うし、その人の家の事情だってある。そもそもみんなそんなに理想通りの人生を送っているか?そんなことって滅多にないと思う。みんな現実と折り合いをつけて今の人生の形になっているはずだ。そういう人生を他人がそこまで欲しがっているはずがない。私はそう思うのですが。

だから、世の中に流通しているほどには、実際独身女性たちは既婚女性に対して引け目や劣等感を持っていないと思う。そういうわけで、メディアがそういうありがちな図式を押し付けているのを見る度に「そこまでそんなか〜?」という違和感を持つのだ。その風潮を真に受けて「結婚できてる幸せな私、できてない人から羨ましがられてる」と思っている既婚者がいるとしたら自惚れも甚だしく、お門違いもいいところだ。私も過去に友達からそんなお門違いな反応を向けられたこともあるが、「はぁ?いやいや別にあなたの方が優位とは思ってないよ…」と心で思ってとくに言葉を返すことなく済ませるしかなかった。それを教訓に、私もどこかでうっかり勘違いしてしまわないように気を付けないと、と思う。人はそんなに私のことを羨ましいとは思ってないよ、と。

私は今人生で2番目くらいに暇がある。1番目は自分で何もできないがゆえに全部親に世話してもらっていた赤ちゃん時代で、その次くらいに予定のない日々を送っている。幼児のときでも保育園に行っていたし、それ以降は学校や会社に通っていたし、会社を辞めてからも仕事が日常にあった。家事や放置している日常のあれこれを完璧にすればこれまでと同じくらいスケジュールが詰まるはずだが、全然完璧にやっていないのでだいぶ時間がありあまっている。

おそらくその余裕が私に気付きを与えた。私の中で眠っているシンプルな欲求が顔を出してきたのだ。それは、「こっちを見て!」「私にかまって!」という欲求である。「Pay attention to me!」の境地である。

ふと、スマホやTVを見ている夫に「かまってくれ〜」という心境になる。名前を呼んでこちらに目を向けさせ、「かまってかまって」とジェスチャーで訴える。かまってもらうと満足。背中をさすってもらったりするととても落ち着く。欲求発生から満足獲得までの一連の行動と心の動きが赤ん坊と何ら変わりないのである。

赤ちゃんは「お尻が気持ち悪い〜」とか「お腹減った〜」とか「寒い〜」とか「寝てたのに起こされた〜」とか何か不快なことがあって泣いたりぐずったりするが、何で泣いてるのが分からない原因不明のぐずりもある。それはときどき「こっちを見てくれ〜」「オレにかまってくれ〜」「抱いてくれ〜」「そして背中ポンポンしてくれ〜」というだけの要求だったりする。実際そういう場面を見たことがある。1歳に満たない子どもを持つ友達の家に遊びに行ったとき、2人で話に高じているとその子がぐずり出す。「オレを放っておくな」と不満を申し立てているのである。「いつでもオレの方に注目していてくれよ」というのが赤ちゃんの基本姿勢なのだ。

でもそれって、赤ちゃん特有のものではなくて、実はすでに大人になっている我々も根源的に持っている欲求なのだ。みんな、自分だけを見ていて欲しいのだ。だから家庭の中で仕事や外の人間関係に気を取られて上の空でいる夫に不満を持つし、飲み会の席で別の人ばかりに視線を向けて自分に興味を示さない他人に腹を立てる。でも目の前にやらないといけないことがあったり、一筋縄ではいかない煩雑な人間関係があったりして、そんな自分の欲求に目を向けてばかりはいられない。そうしている間に、「かまって欲しい」欲求が心の底の方に隠蔽され、人から見逃され続けてナデナデされることのない日々が当たり前になってしまう。

大人でも背中をさすられると心地良い。ポンポンされると安心する。頭をなでられると嬉しい。このことに気付いて私は驚いたと同時に「人間、赤ちゃんのときから大して変わらないんだな」と呆れるような気持ちになった。いつまで経っても、老人になっても、この性質は変わることがないだろう。その部分については人間である限り成長は見込めないのだ。

だから、「かまってくれ」と訴えたら無条件に向けてくれる目とさすってくれる手を大人になってもずっと確保しておけたら、満ち足りた人生を送ることができるに違いない。大人になった私たちは、親の代わりとなるその目と手を見つける必要を本能的に感じているのだ。