奥 麻里奈ドットコム

日々の散文と公式HP

そろそろ妊娠生活も終わりのはずなのに思ったようにその終わりがまだ来ていない。それはもしかしたら私自身にこの日々のエンディングの意識が足りていないせいかもしれない。心のどこかで、「このままの日々がもうちょっと続くはず」と思っているのかもしれない。そういう母体の態度がお腹の子の一挙手一投足を司っているんじゃないか。予定日と言われている日に何も起こらないとそういう風に思えてくる。「1週間遅れて陣痛促進剤を打つことになったら、打たれる直前に陣痛がちょうど来た」という話をちらちらと聞いたが、これは「やばい!打たれてしまう!」と焦ったためにようやく心の底から「もう陣痛来てよし!来い!」と迎え撃つ心境になれたからなんじゃないかと思う。「もうこれで思い残すことはない、あとはいつでも産まれて来てね」という心境になるように、準備をし切ることと締めくくりの作業が必要な気がしてきた。私がここでやり残しているのは、妊娠生活の総括だ。

私の妊娠生活はとても幸せだった。この一言に尽きる。

その幸せの素は、夫の存在にある。こんなに幸せな日々をくれた夫に心から感謝している。「感謝」という言葉を、心の底から本当に使ったのは人生で初めてなような気がする。それくらい、この妊娠していた日々を振り返ると、夫に対する感謝の気持ちが自然に溢れてくる。

夫はフリーで仕事をしているので、基本的に毎日家にいる。この生活スタイルがまず私の幸せの基盤になっている。3食一緒に家でご飯を食べている。洗濯とか布団とかお風呂とかゴミとか虫退治とか庭に来る猫とか、家のことに同じように関心を持って一緒に生活をつくっている。散歩したりスクワットしたりマッサージしてくれたり、妊娠体のための活動にもコミットしてくれる。体調に関してもリアルタイムで知っていてくれる。家の周りを一緒に散策して自分たちが住む地域のことを一緒に知ることもできた。こんなにコンセンサスが取れるのは、まずは私たち夫婦独特の「一緒にいる時間が圧倒的に多い」という物理的条件に拠るものだ。幸せを形作っているのは仕事のスタイルと言っても過言ではない。私は気ままな専業主婦のように毎日ただ料理に埋没できた。

私の妊娠期間は、「子ども」をもう一度させてもらった期間だった。私はこの妊娠期間に赤ちゃん返りならぬ子ども返りをしていた。

子どもみたいに、自分に関心を向けて欲しいときに“構ってアピール”をすればすぐに応えてくれる夫。甘えたい気持ちを全部受け止めてくれる存在。私は長い間あらゆる人間関係の中で露にすることができなかった童心のような素直な欲求を何のためらいもなく当たり前のように夫に向かって表現した。

それを、「きっとお腹の子が私に憑依しているんだ」と思っていたが、果たしてそうか。今は、あれは紛れもなく私自身の内から発したものだったんじゃないかと思うようになってきた。私はきっと今まで人に甘えることに飢えてきた。本当はすごくすごく甘えたかったけど、そういう思いを持っていないものとして自分を取り扱ってきた。そういう日々を取り返すかのように大人の姿で“甘え直し”をした。

そんな甘え放題の日々を送らせてもらえたことで、私は子どもの気持ちというものを追体験できた。赤ちゃんが泣いたりぐずったり、子どもが親の行く先々を追っかけて回ったり、親に向けるベクトルの切実さを我が身で知った。

この体験が、私が子を産むための準備になったように思う。子どものありがちな行動のわけを、自分自身の生々しい欲求として感じることができたから。私が産んだ子が私にそういった欲求を向けてきたときすぐに掬ってあげられるように。もしかしたら自分が親の立場になった瞬間忘れてしまうかもしれないけど、忘れてしまったときはこの妊娠していた日々を思い出しますように。そのために書きつける。

そんなのんびりとした、安らかな、全肯定の日々。子ども時代以来味わっていなかった、幸せだけしかない時間を、夫のおかげでこの歳になってもう一度味わうことができた。

それも終わりが来る。私の子どもが生まれることによって。だけどそれは残念なことではない。季節が変わる、そういう種類のものだ。この幸せな日々は、妊娠といういずれは終わりが来る時間だからこそ存在したのだと思う。妊娠がいつ終わるか分からないものだったら、この満たされた日々はなかっただろう。

人生で一番幸せな時間を大人になった私にくれた夫に、心からありがとう。

私の妊娠生活もクライマックスに突入している。子なし時代ももうそろそろ本当に終わりを迎えるだろう。

妊娠期間に世の中ではいろんな問題が起こった。とくにこれから自分にも関わってきそうな児童待機問題も社会運動になり、一歩前進しそうな雰囲気が0から1になった瞬間をリアルタイム妊娠中に目撃した。声を上げて実際に行動を起こした人たちをすごいなと目を見開きながら、妊娠体でTVの画面越しに眺めていた。その闘う姿勢が本当に素晴らしいなと思った。

だけど、私自身はまだ保育園に預けるのかどうかはまだ決めていない。預けるとしたら0歳児でないと現実的に難しいので来年の4月に入園させるように保活をしないといけないが、そういう世の中の流れを前にして腑に落ちないものを感じている自分がいる。

というのは、私の子育てがなぜ外部要因のために制限を受けないといけないのだろう?という感慨である。

生まれてみないと分からないが、もしかしたら1歳半までは預けたくないと思うかもしれない。2歳ならそろそろと思うかもしれない。3歳からでもいいと思うかもしれない。

なのになぜ、そういう私の母親としての内からの欲求と直観に従えない社会構造になっているのか?どうして社会の都合にこちらが合わせないといけないのか?

そういう理不尽さ、納得のいかなさを、保育園問題に接するたびに感じる。

「この機会を逃したら預けられなくなるから0歳から入れるしかない」そういう思考で保活なんかしたくない。生まれた子どもと日々過ごす中で、自分がどれくらい子育てをしてどれくらい仕事をするのが家族にとって精神的にも経済的にもベストバランスなのか、それを自分で測って配分する前に、何で社会のシステムごときに時期ややり方を決めつけられる目に合わなければならないのか。子どもが産まれるのは自然の摂理に則ったタイミングであって、別に社会計画に基づいて産まれているわけじゃないのに。

それは、児童待機問題に限らず、世の中の働く母たちが勤めている会社というものに対しても感じることだ。何で保育園に預けないとやっていけないような固定化した働き方をしないといけないのか?時短制度とかあるけど時間に縛られるのは変わりないし、0歳から預けないと働けないという風に時期も縛られている(法律上は3年育休が認められているが、そんなに育休を取れる会社は現実にない)。

そもそも、決まった時間に決まった場所へ通勤しないといけないというルールが当然のようにまかり通っている企業社会というもの自体に私は疑念があるため会社を辞めてフリーの立場で仕事をしているわけなので、会社勤めをしている人たちの事情は個人的には関係ないっちゃ関係ないのだが、「なんでそんな思いしてまで保活して会社に勤めようと思ってるんだろう?」と思ってしまう。

だって、そもそも待機児童問題が起こる原因って、企業社会というものが都市部にあるために人の居住地が制限を受けて、人口が一局集中しているために起こっている問題だから。そして待機児童を解消させようというのはその一局集中状態を維持、あるいは促進させようという動きだから。そんなに皆ぎゅうぎゅうに一箇所に集まって快適か?生活していくために仕方ないってことを皆言うけど、ほんとかそれ?世間からマインドコントロールを受けてるか、何かの幻みたいなもんに執着するための大義名分じゃないのそれ?しがみついてでも手放したくないほどほんとにいいもんかそれ?

ときどき散見される「母親になったんだから自分のエゴのために働こうとするのをやめろ」という母性絶対論を言おうとしているんじゃなくて、働く働かないは自由にやればいい、むしろその二極のレンジの自由度を上げろ、という話なのだが、国や自治体っていう公共体と企業社会から指定された労働&子育てスタイルを死守しないといけない、それによるしわ寄せを食うのは一個一個の家庭、という理不尽になんでみんな歯食いしばって耐えてんの?マゾなの?ということが言いたい。だって、公共の福祉と仕事は自分の人生のために利用するものではあってもあちらに都合良く利用されて振り回されるものではないから。

そういう風に思ってるほど、私は外部の都合に左右されるのが嫌いだ。自分の内から湧いてくる自然な欲求や母性や道徳に従うことを第一優先で外部と折り合いをつける、そういう方針でいる。だって、幼子が人としての基盤をつくる一番大事な時期なのだ。家庭環境を死守しないでどうする。人間性を社会に奪われてたまるか。

だから、何とかこの保育園入れない問題の渦に巻き込まれる一員に私もなってしまうのを避ける方法はないか、自分オリジナルの抜け道みたいな方法があるんじゃないかと今から思っている。それが何なのかは全然分からないけど。だって、生まれてみないことには自分がどうしたいかまだ見当がつかないから。でも、今までやってきたみたいに自分独自の生活運営の仕方を編み出せるんじゃないかと、未来の自分をわりと信頼している。