奥 麻里奈ドットコム

学ぶ母の生活と日々の散文

妊婦にとって食事、運動と同じくらい大事だとよく言われるのが「規則正しい生活」というやつ。しかし私はこれがまったくできていない。なぜかと言うと朝起きられないからだ。

正直言って、毎日午前中のほとんどは布団の中。夜は1時〜2時くらいに寝ることが多い。しかも昼寝までする日もけっこうある。一度寝ると1時間とかでは起きない。2〜3時間くらい寝てしまう。妊娠してから活動総時間が圧倒的に短くなった。まあ、妊婦は昼寝したりするものみたいだけど。

朝は昔から起きられなかった。小学生のときも、8時30分までに登校しないといけないところを8時に起きて8時15分に家を出ていた。中高時代も、家を出る15分前に起き、電車を降りたら全力疾走する毎日。思えば会社員時代もそうだった。だから朝ちゃんと起きられないことに対する蓄積された罪悪感は相当なもので、しまいには朝起きないといけないプレッシャーで夜眠れなくなり、朝方ようやく眠くなるのでギリギリまで眠りたく、会社直行の日は電車に乗ることもできなくなっていきタクシー通勤の日々。引っ越しを重ねるたびに会社までの距離がどんどん近くなっていった。

なぜ朝起きられないかと言うと、①低血圧なので目が覚めてもすぐ起きられない、②朝早く起きると調子が悪い、③朝は寒々しくて怖い、④起きてもとくにやることがない、⑤こともあろうか夫も夜型人間で朝寝ている、からである。

①と②は繋がっている、というかほぼ同義だが、目が覚めたと同時に体を起こすことができず、起きるための助走時間を布団の中で取っている。その時間はだいたい2時間。長い。前は本を読んでいたが今はスマホ。そうでないと無理矢理起きても頭がクラクラして体が冷えていてだるくて起きていられず、結局布団に戻る。おそらくこの低血圧体質のせいで午前一番の妊婦健診中に診察室で吐いたこともあった。エコーをお腹に当てているとき仰向けになっていて、ただでさえ血の巡りが悪いところを大きな子宮が大静脈を圧迫して顔面蒼白、呼吸をするのが苦しい状態になり、冷や汗タラタラ、咄嗟に先生のデスクにあったゴミ箱を抱えて嘔吐した。だけど、世の中には「低血圧だから起きられないというのは言い訳だ」という論調もあったりして、そのせいで「私は朝もちゃんと起きられないダメ人間なんだ…」と罪悪感を蓄積し、自己肯定感を損なわされてきた。こういう社会圧に対しては心底恨んでいる。

③は、朝の光が青っぽく、薄ら寒いのが淋しさを助長するうえ、低血圧の体をより冷やすようで、心を挫かれる。よく朝は爽やかだと言われてるけど、私にとっては爽やか=涼しい=寒い=淋しい、である。9時10時になって光が黄色くなってくると温かみを感じてやっと安心して活動できるような気分になれる。

④は、たぶんだけど、今までの人生、朝起きる理由が「学校なり会社なりに行かなければならないから」だけでここまで来てしまったからである。私にとって朝起きる理由は外部にあって、自分のために起きるという発想がないのだ。朝ゆったりとコーヒー飲むとか、やりたいことやるとか、出社前の時間をそういう風に遣う人がいるが、朝起きてまでそんな楽しみにできるようなことなど何もない。もちろん、朝起きて掃除洗濯とかやればいいのだけど、そのために起きる気にはなれない。私の人生はそんなに希望に溢れていないのかもしれない。

⑤が決定的で、私と同じ夜型人間なうえ、仕事もフリーなので起きる時間に制約がないため、朝目をつむっている夫に生活スタイルを合わせている節がある。しかし夫と私の違いは、私が神経過敏気味で5、6時間で目が覚めてしまう(その後布団に滞在)のに対し、夫はどこまでも寝続けられるところである。そして目が覚めたと同時に体を起こすこともできる。朝遅く起きることに対して罪悪感もまったくなさそうだし、見ていて羨ましい。私も寝続けられるならどこまでも寝続けたい。だけど、目をつむってる夫の横で現実世界に体を慣らしながら夫が起きるのを待っている、淋しいから。でもさすがに耐えきれなくなって先に起きることに毎回なる。それだったらさっさと起きればいいのに…と自分でも思うのだが、③④の理由で起きられない。理想は、夫が早起きしてくれて私も淋しさを感じることなく朝の時間を過ごせることである。

朝型礼賛の風潮に対する溜めてきたウラミツラミがありすぎてここまで朝起きれないことについてツラツラ書いてしまった。

実は、そもそも言おうとしていた本題についてはまだ辿り着いていない。明日に続く。

妊娠を体験して初めて知ってびっくりしたことに、「お腹は徐々に大きくなるわけじゃない」という事実がある。あるとき一気に出てくるのだ。

私は6か月めのときに結婚式をしたのだが、「きっとギリギリ大丈夫だろう」と予測して、一か八かで海外のサイトで9号のウエディングドレスを買った。しかも、マタニティウエディングに推奨されないタイプのスレンダーラインのドレス。ぶわっと広がるやつより、シュッとしたやつの方が好みだし、本来の私の体型とかキャラクターとかに似合ってると自分で思ったからだ。

届いて着てみると、ウエスト周りは少し布が余る感じで「これはいけそうだ」と確信した。本番の日にも少し膨らみのラインが出るものの予定通り入ったし、パッと見では妊婦と分からないほどだった。あとから写真を見ても普通に通常体に見える。

ところが、そのあと2週間だったか程なくして「あれ!?」と思うようなお腹になっていた。お腹のでっぱりが「明らかに妊娠してる人」のものになっていたのだ。月1回の健診に行くと、お腹の子は800gくらいになっていた。「え!?」耳を疑った。前回4週間前に行ったときは400gくらいだったのだ。ピンと来ないかもしれないが、考えてみて欲しい。5か月くらいかけて、胎児はコツコツ体を大きくしていってようやく400gになったのだ。それが、その後4週間で一気にほぼ2倍になっている。今までコツコツ積み重ねてきた努力は何だったんだ…数100gだった塊が、いきなり1kg近くなるって…。ウエディングドレスを着た1か月後、「1か月遅かったら絶対着れなかったな…危なかった…」危機一髪を無事切り抜けられたような心境になった。

そして驚くことに、そのまた次の4週間後の健診では1300gくらいになっていた……2倍とはいかないが、2倍に迫る勢いの猛スピード成長である。そこからはこういう調子でどんどん増えていき、今はもう生まれてきてもOKな体重にすでになっている。

中高時代に授業で習った生物の発生の「卵割」の絵が頭にぽやぽや〜と浮かんできた。受精して最初は単細胞だった細胞が、2つになり、4つになり、8つになり……と倍倍で細胞数を増やしていって、分化していく。きっとあれと同じ原理だ。成長は2乗のスピードで行われるのだ。だからあるときから見た目に明らかなほど一気にお腹が出てくるのだ。

妊婦が妊婦らしさをそなえるとき、それは7か月めである。妊婦のトレードマークであるお腹のでっぱりが日常生活から切り離せなくなるのもその頃。歩いていて息切れしたり、骨盤ベルトをしないと腰の痛みがどうしようもなくなったり、しゃがむのが困難になったり、ハンデのある体になる。

だけどその分、お腹の中の存在が実在することに疑いようがなくなった。それまでは「本当にいるのかな?」「知らんうちに消えたりしてない?」という疑問符が毎日頭に浮かんだ。そして健診に行くたびに「ほんとにいるーー!!」と毎回驚いていた。だけど、この重み、この骨折りは紛れもなく存在することの証である。そして私の意思とは無関係に轟くデンデン太鼓の力強さも。この頃から、私たちの生活にもう1人の確かな影が少しずつ忍び寄ってくるのである。

妊娠中の人が何に関心を持っているか——自分が妊娠してみるまでそれは分からなかった。

というより、子育て本を読んで知識を蓄えたり、赤ちゃんグッズを揃えたり、生まれてくる子のための衣類を手作りしたり、栄養を考えた食事を摂ったり、マタニティ体操をしたり……生まれてくる子のことを中心に考える生活を送るものなんじゃないかと想像していた。

いざ、なってみてどうかと言うと、それは一部そうであるが、それ以外はそうではない。私の日々の関心は、案外目の前のことにある。今日はご飯何をつくろうとか、冷蔵庫にあれがなくなったから買いに行かないととか、TVやネットのニュース見て「そうやそうや」と思ったり「はあ!?何言っとんねん」と思ったり「しょーもな」と思ったりとか、好きな漫画が出たからamazonでポチるとか、庭のしだれ桜や近所の花の様子を確認するとか、庭に来る野良猫とコミュニケーションを取るとか、電力自由化でどこの会社にしようとか、携帯を格安SIMに変えようとか、お風呂場に発生する小バエを撃退したいとか、旬の内に食べられるだけ苺を食べておきたいとか、そういうことが一日の大半を占めている。

妊婦らしい活動と言えば、栄養バランスを考えてご飯をつくること、2日に1回ペースでの30回×3セットのスクワット、在宅仕事をする夫にも必要な運動と思う散歩を毎日一緒にすること、妊娠線予防のために毎日お腹にオイルを塗ること、そのときたまたま関心を持った子育て本をときどき入手して読むこと、といったところか。赤ちゃんグッズはそれなりに揃えて、そのまま置きっぱなしにしてある。毎日お腹の中で動き回る胎児の存在は感じながらも、そのことを中心に毎日を送っているわけでもない。

というのも、私の場合は妊娠期間と新婚期間が並走しているからだ。妊婦でもあるが、新婚妻でもあるので、妊娠の事実だけに集中することができない。結婚生活がまだ始まったばかりなので、妊娠生活以前に新婚生活が新鮮だし、2人だけで過ごせる期間にタイムリミットがあることが分かっているから、マイペースで何気ない2人の日常生活が貴重なのだ。のんびりしているうちに日が暮れていく似たような毎日は、子どもが生まれた瞬間からなくなってしまうものなのだ。だから今は、夫と過ごす時間を大事にする。2人で自分たちの生活を創りあげることに時間を注ぐ。赤ちゃんに関することは生まれてからでもできることだから。

ひとくくりに妊婦と言っても、その人が置かれている状況によって関心事はそれぞれなんだということを、自分の体験を通して初めて知った。ずっと妊娠を待ち望んでいた人はお腹の中の子のことばかりを考えながら過ごすだろうし、絶対に今の仕事を手放したくないと思っている人はやれるだけの仕事をやり切ることを第一に考えるだろうし、自由に遊べなくなることを惜しむ人は今のうちに遊べるだけ遊ぶことに集中するだろうし。私は、生むまでにライフワークとか仕事とかをやれるだけやろうとするだろうというイメージが自分ではあった。生まれたらなかなかできなくなるかもしれないから、何かまとまった書き物を書き切る、一作品として仕上げる、そういう自分事にギリギリまで時間を遣う妊娠生活を送ると想像していた。けど、蓋を開けてみたら全然違った。それよりも夫との日常生活を築くことの方が大事だったみたいだ。自分のことは案外自分で分かっていない。実際そうなったときの行動がすべてを物語る。妊娠生活というのは、妊婦の数だけ色豊かにあるのだ。

胎動という言葉の響きには、「厚く守られたお腹の壁の内側で胎児がうごめく」みたいなイメージがある。少なくとも妊娠前私はそういうイメージを持っていた。

だけど、実際は違っていた。戌の日のお参りに行った日の夜、初めてお腹の中がプルンッと響いたのを感じた。「あ!これが胎動だな」と確信した。健診でも「もうそろそろ胎動あるんじゃない?」と先生に聞かれていたけど、「うーん…?ドクドク脈打ってるのは感じるんですけど…」と答えて「それは胃じゃない?」と言われた。このときまでは胎動をまだ実感していなかったのだ。

お腹の中がぴくんっぴくんっと勝手に動く。私の意思とはまったく関係なく。「体の中に、自分とは別の意思を持った人間がいる!」と衝撃を受けた。自分の体なのに、自分の生理とは全然関係ない動きをする者が中にいるのだ。こんなことが自分の身に起こったのは初めてだ。しばらく私は胎動があるたびにその不思議さに一回一回驚いていた。

胎動というものは、「そろそろ動くかな?」とか期待しながらお腹を見ていても「シーン」だし、何も意識していないときにこそいきなりお腹でピチピチ魚が跳ねるみたいな響きがある、そういうものだ(実際、胎児は新鮮な魚と同じくピチピチな生き物なのだ)。スマホの動画を構えていても、まったく思い通りに動いてくれないのでタイミング良くその瞬間を撮れたりはしない。でもそれは当たり前である、他人が自分の意思に基づいて動いているのだから。子育ての予兆というものをここに感じる。

そして、どんどん育って大きくなってくると、蹴られた部分がその足の形通りに盛り上がっているのを目撃できる。この感じ、何か見たことあるなと思ったら、あれだ、Tシャツの中(?)で進みたい方向にいきなり飛び跳ねてヒロシを前のめりにさせるど根性ガエルだ。妊娠後期になって手足の蹴りの力が強まるとお腹がブルブルブルブルと地揺れを起こす。まさに地震。お腹は地球なのだ。胎児が大きくなるほど、手足がお腹のシルエットを変形させる。その部分を触ると、お腹の皮を通して胎児に触れられ、その形を感じられる。お腹の皮と子宮の壁は思っているよりもけっこう薄い。お腹にいるときから子どもとスキンシップを取れるなんて、知らなかった。

この現象を夫にも感じてもらいたくて、よくお腹を触ってもらうし、夫のお腹に私のお腹をくっつけて疑似体験をしてもらうようにしている。お腹の皮膚を通して胎児の肉の固さを感じるたびに「いるな〜」と言っている。すぐ下に胎児はいて、明らかに人間が存在していることがリアルに理解できる。

ちなみに、蹴りが強すぎて「痛い」と感じたのは1回くらいしかない。それ以外は「痛い」の一歩手前の感覚で、何と表現したらいいのか分からないけど「うおお」という感じ。月齢が進むと、蹴りの衝撃だけではなくて、むりゅむりゅ、と動くのを感じる。この例えはあまりしたくないのだけど、蛇が動くみたいな感じが近い(私は蛇がこの世で一番嫌い)。

最近は胎動が当たり前のようになってきたが、「今日もちゃんと動くかな?」と不安に思うようにもなってきた。いつの間にか動かなくなったらどうしようと想像して恐れる気持ちが出てきた。最後まで無事で動いていてくれますように。

前に、暇ができたことによって人間のプリミティブな欲求に気付いたという話を書いた。赤ちゃんの頃から人間ほとんど変わってないという話だ。気付いたのは「あり余るほどの時間ができたから」という風に根拠づけを試みてるが、実際それが原因なのかは分からない。もう1つ考えられるのは、お腹の中にいる赤ちゃんが私に乗り移ってるんじゃないかという可能性だ。

妊娠してから赤ちゃんや子どもの気持ちをだいぶ理解できるようになった。基本、「こっちを見てくれ」「かまってくれ」って思ってるし、背中をさすってもらったりポンポンされたりすると安心するし、甘えられるだけ甘えたいし、可愛がられたい。赤ちゃんは自分で動けないけど動きたいから揺すられてると嬉しい。子どもは体が軽いから終始動き回ってる。これは人間に限らず、犬猫など動物もみんな一緒だと思う。こういう気分は、胎児と一体化しているがゆえに私自身にももたらされているような気がする。

こういう欲求を受け入れてくれる人がそばにいるせいか、赤ちゃん返りをしているような気分になることが毎日の生活の中の瞬間にある。手をつないで歩くとき、体が重いためゆっくりとしか歩けないというのもあって、親に手を引かれる幼子のような気持ちになっている。体を撫でられるときも、恋人同士というより親子関係の「よしよし」のような感覚になりとても心地良い。矢野顕子の曲で「お母さんもたまにはいいこいいこって褒められたいの」っていうような歌詞があったけど、あの曲、正直聴いたときは「おばさんが甘えたいとか、何か気持ち悪いな〜」って思っていた。おばさんの少女心とか、見せないで欲しい。けど、今は分かる。おばさんも、おじさんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、かっこつけてる若者もみんな、幼かったときと同じようにいいこいいこされたがっている、本当のところ。

それを理解するようになってから、すでにいい年の大きい体をしている夫も、ただの幼子だった頃から何一つ変わっていないんだなと思えるようになった。夫の心の内にだって、私と同じように甘えたくて可愛がられたい欲求が仕舞われているのだ。だから、私は夫にも「よしよし」を進んでする。人に対してそういう気持ちを快く認めてあげたくなったのもこれまで生きてきて初めてのことだ。私は誰の「よしよし」願望も受け付けて来なかったし、自分自身のそれを無きものにしながら過ごしてきた。そんなものは今更自分の中に埋もれているなんて思いもしなかった。だからこそ、人がそういう片鱗をちらっとでも見せようものなら素早く拒絶の意思を示してきた。「私は甘えないんだから、あなたにも甘えさせない」と。

そんなところへ、今私の体と同化しているお腹の子の心が私の心に憑依して、私の埋もれていた欲求をいとも簡単に拓かせた。そして他人の中にある欲求の存在も見抜かせた。胎児というものはそんな働きかけを母体にしているのではないだろうか。もしくは、胎児の存在をつねに感じている私の方が胎児に憑依しているのだろうか。

お腹の子の気持ちを通して自分の気持ちを知り、自分の気持ちの表現をする。見て欲しいときに「見て」と言い、かまって欲しいときに「かまって」と言い、甘えたいそぶりを見せる。ただし、これは夫に対してだけ拓かれるチャンネルであり、それ以外の人には決して見せることはない。もちろん、恥ずかしいからだ。そんな風に拓ける相手が1人いれば人生充分である。