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雑感

初ポメラ原稿

ポメラを買った。

ポメラというのは、文章を書くのに特化した、インターネットのできない機械、要はワープロの現代版みたいな機械で、この文章もそのポメラで書いている。DM200という最新型。

「インターネットはできないけどメールだけできるパソコンが欲しいねん」などと夫に話していたら、「そういうのあるよ」と教えてくれた。ネットで買った人のレビューを読んでるうちにみるみるポメラ熱が沸いて、存在を知った日から2日後にはビックカメラに行った。実際どんなものか触ってみるためだった。というのは夫と自分自身に向けた建前で、行く前からすでに心は決まっていた。ただの真っ黒な全然かわいくない機械だけど、久しぶりに胸がときめいた買い物だった。

なんでこんな機械が欲しかったというと、自分の生活にMacは必要ないからだ。5年前に住んでいたシェアハウスではその頃Macが流行りに流行ってて、猫も杓子もMacを持って共有スペースに来た。スタバ×Macの組み合わせが全盛だった頃だ(今もか?)。私もシェアメイトからたしか64000円で譲ってもらってMacbook Airを手に入れた。が、2年半後にシェアハウスを出る頃には「Windowsでまったく問題ない」という結論になっていた。むしろWindowsに戻りたかった。けど新たにパソコンを買う必要がまったくない。だって私のおもな仕事内容はWordで文章を書くことと記事用の写真を取り込むくらいの単純作業で、MacだろうがWindowsだろうがまったく関係ない。しかも5年ものはパソコンとしては古いんだろうけど、古いパソコンだとしてもまったく支障がない。

だからずっとその後もMacを使ってきたけど、仕事の前に必ずネットに逃避するのが習慣になっていた。どんなにやり甲斐のある仕事でも、仕事だと意識すると逃げてしまう。ヤフーニュース見て、Facebook見て、Twitter見て、またヤフートップに戻る。その順繰りをしつこく繰り返す。もう新しいネタがなくなっても目を皿にして何かないかと探す。ぎりぎりまでネットサーフィンして、締め切りまでの時間の猶予がなくなってもうやるしかないというところまで来てようやく着手。心臓がキリキリして「もうこんな自分嫌だ」と思いながら、ゼェゼェ終える。毎度このパターンで、頭が禿げそうだった。

「パソコンにインターネットがついてるからあかんねん!」という発想に自然となった。インターネットが憎い。ヤフーのトップページが憎い。FacebookもTwitterも憎い。パソコンについてるから悪いんや!書く作業単独の機械が欲しい。現代のストレスの元凶のほとんどはパソコンとスマホの多機能性にある!ワープロで全然いいねん、前の時代に戻りたい・・・え?あるん?へえ、そうなん?やっぱり・・・。

で、ポメラ。実際、使ってみた感触は、いい感じです。だって、蓋開いたら書いてた文章がすぐ出てくるからね。すっと入れる。しかもノートパソコンより圧倒的に軽くて小さい。持ち運びが手軽やし。ノートパソコンは定位置に置いて、スマホよりもこのポメラを携帯しようと思う。あってもなくてもいい情報は極力排除して、テキストと距離を縮めて、今ある仕事のためだけじゃなくて、今後の発展のためにももっと書くことを習慣化しようと思う。

仲良くする相手は選ぶべし。相手が機械でも。

春になって、うちの庭の花が咲き出した。自慢はしだれ桜。普通の桜よりも咲く時期が遅いので、ようやく今ちょこちょこと濃いめのピンクの花が裸だった焦げ茶色の枝に加わってきた。私が住んでいる物件は一軒家の一階部分で、毎日庭を見ながら過ごす。冬の間はいたって普通のありふれた緑の絨毯だったのが、春になって名前が分からない白い花が一面ブワッと咲いて、今は白と緑の絨毯になっている。ここに野良猫が通りがかると、図々しい性格の猫でも白い花に包まれたその姿はかなりメルヘンチック。最近はまた別の、細長い葉っぱの植物も背が伸びてきて、紫色の花が咲き始めた。

うちの庭だけでも春の芽吹きを著しく感じるのだが、近所の庭や公園で花が咲き出したのをあちこちで目撃していたので「春になってきたんやなあ」と日々実感していた。とくに近所の山の中にある公園では、少し前、木の枝に桜の花がチラッとついていたので、「そろそろ満開に近いはず」と思って最近夫と散歩がてら様子を確認しに行った。そしたら思った以上に桜が咲き乱れていて、密かに圧巻の景色をつくっていた。ここはそんなに知られた場所でもないようで、犬の散歩コースに利用してる人や子どもを遊ばせるために一緒に来る親子など、近所の人たちしか来ない、隠れ家的花見スポットになっている。なので次の日は夫とピクニック気分で焼きそばを持っていき、ベンチで花見をしながらお昼を食べた。

「花とかあんまり見てなかったけど麻里奈が花に興味があるから言われて意識するようになったよ」と夫に言われた。一瞬、「ん?興味?」と思った。たしかに私はことあるごとに咲いてる花を見つけては「見て、咲いてる」と指差して夫にそれを見るように促していた。でも、私、そもそも花にそんなに興味あったっけ?むしろない方だったような。実際、小説とかの風景描写は退屈すぎて苦手で、読み飛ばしたい衝動に駆られるページNo.1なはずだ。

よくよく考えてみると、東京にはこんなに草木はなかった。今住んでいるところは東京の隣県だが、ほとんど東京に隣接しているくらい近いところである。だけど、住宅地の様子が東京とは違う。どこの家にもいろんな種類の木が植わっていて、整いきっていない、ちょっと野性的な年季の入った庭の濃い緑が住宅地を覆うようにして風景をつくっている。だけど、東京の住宅地にはこんなに緑はなかった。そもそも庭のある家が少なかった。あったとしても敷地からはみ出していって逞しき野生のパワーを見せつけているような、本来の意味の「自然」を見ているような植物の姿はない。庭の植物は周りを気にしながら個々の家の範囲内に肩身狭そうに収まっている、そういう印象だった。東京の住宅地はあくまでアスファルトとコンクリートが主役。緑は厳密に指定された場所にしか存在することが許されてないような感じだった。

だから、花を目撃する機会が今までほとんどなかったのだ。東京で春を感じようとしたら、「緑があるのはここです」と指定されている場所に行って確認するしかない。公園とか、並木通りとか、ちゃんとそれ用に整えられたところにしかない。桜は不用意に突然現れない。椿も、梅も、こぶしも、菜の花も、キンカンも、はっさくの実も。東京で季節を感じることが乏しかったのは、私が仕事や生活ばかりにかまけていたからだけではなくて、道端に季節が転がっていなかったからだったのだ。

東京と言っても私が住んだことがあるのが23区なので、23区を外れるとまた事情が変わってくるのかもしれないが、ともかく、東京23区内は人がいすぎて一人一人が所有できる土地の面積が小さいのだろう。だから互いに気を遣い合って、人に迷惑掛けないように、はみ出ないようにしながら、肩を寄せ合い、肩身狭くいるのだろう。

23区には、余白がない。手つかずの土地がない。すべての土地に何かしらの意味付けがされている。この自然は公園ですよ、ウォーキングコースの緑道ですよ、神社の敷地ですよ、とか。だけど、今住んでいるところでは「指定保全地区」という名の、手をつけるにはちょっとめんどくさそうな竹薮の森が、歩いていると突如出現する。ドーンと大雑把に、放置された自然がそこかしこにある。こういう緑の余白に私はホッと息を抜く。東京にいたとき、どうしてもコンビニに寄らずにはバランスを取れないような息詰まり感をいつも感じていたが、それはあまりにも余白の地がなく、誰の所有地でもない、お金を払わなくても許される「居てもいい」場所が自分の部屋以外にほとんどなかったからだったのだ。

そういう意味で、東京は住む場所としては特殊な地域だ。東京を出てみて、「人工」の意味がさらによく理解できる。すでに地元びいきなのか、この先また東京に住みたいとは思っていない。今は、東京での生活はもうほかの人に任せて、余白のある日常を味わいたい気分でいる。

私は今人生で2番目くらいに暇がある。1番目は自分で何もできないがゆえに全部親に世話してもらっていた赤ちゃん時代で、その次くらいに予定のない日々を送っている。幼児のときでも保育園に行っていたし、それ以降は学校や会社に通っていたし、会社を辞めてからも仕事が日常にあった。家事や放置している日常のあれこれを完璧にすればこれまでと同じくらいスケジュールが詰まるはずだが、全然完璧にやっていないのでだいぶ時間がありあまっている。

おそらくその余裕が私に気付きを与えた。私の中で眠っているシンプルな欲求が顔を出してきたのだ。それは、「こっちを見て!」「私にかまって!」という欲求である。「Pay attention to me!」の境地である。

ふと、スマホやTVを見ている夫に「かまってくれ〜」という心境になる。名前を呼んでこちらに目を向けさせ、「かまってかまって」とジェスチャーで訴える。かまってもらうと満足。背中をさすってもらったりするととても落ち着く。欲求発生から満足獲得までの一連の行動と心の動きが赤ん坊と何ら変わりないのである。

赤ちゃんは「お尻が気持ち悪い〜」とか「お腹減った〜」とか「寒い〜」とか「寝てたのに起こされた〜」とか何か不快なことがあって泣いたりぐずったりするが、何で泣いてるのが分からない原因不明のぐずりもある。それはときどき「こっちを見てくれ〜」「オレにかまってくれ〜」「抱いてくれ〜」「そして背中ポンポンしてくれ〜」というだけの要求だったりする。実際そういう場面を見たことがある。1歳に満たない子どもを持つ友達の家に遊びに行ったとき、2人で話に高じているとその子がぐずり出す。「オレを放っておくな」と不満を申し立てているのである。「いつでもオレの方に注目していてくれよ」というのが赤ちゃんの基本姿勢なのだ。

でもそれって、赤ちゃん特有のものではなくて、実はすでに大人になっている我々も根源的に持っている欲求なのだ。みんな、自分だけを見ていて欲しいのだ。だから家庭の中で仕事や外の人間関係に気を取られて上の空でいる夫に不満を持つし、飲み会の席で別の人ばかりに視線を向けて自分に興味を示さない他人に腹を立てる。でも目の前にやらないといけないことがあったり、一筋縄ではいかない煩雑な人間関係があったりして、そんな自分の欲求に目を向けてばかりはいられない。そうしている間に、「かまって欲しい」欲求が心の底の方に隠蔽され、人から見逃され続けてナデナデされることのない日々が当たり前になってしまう。

大人でも背中をさすられると心地良い。ポンポンされると安心する。頭をなでられると嬉しい。このことに気付いて私は驚いたと同時に「人間、赤ちゃんのときから大して変わらないんだな」と呆れるような気持ちになった。いつまで経っても、老人になっても、この性質は変わることがないだろう。その部分については人間である限り成長は見込めないのだ。

だから、「かまってくれ」と訴えたら無条件に向けてくれる目とさすってくれる手を大人になってもずっと確保しておけたら、満ち足りた人生を送ることができるに違いない。大人になった私たちは、親の代わりとなるその目と手を見つける必要を本能的に感じているのだ。

一昨日の続き。

・都市部へ出なくなった。必要でない限り電車に乗らない。

これは仕事で外に出る機会が少なくなったというのが一番の原因。以前は新宿とか渋谷とか別に行きたくなくても行かざるを得ないことがあるのが日常だったが、今は電車自体乗ることが少なくなった。ほとんどの日が徒歩圏内をちょこまかするだけで日が暮れる。新宿とか渋谷とか行かなくても生きていけることに気付いてびっくりしている。その代わり、amazonの利用率が格段に上がった。とくに本。都市部を外れると本屋の品揃えはガクッと少なくなる。

・一日中家の中に居てもあまり気詰まりしなくなった。気分転換のために外に出ることが激減した。

結婚して家の面積が一人暮らしのときの3倍くらいになり、家の中での移動距離が長くなった。手足いっぱいに伸ばしても何にもぶつからないし、うちは一軒家の形をしたアパートなので庭があって縁側的なところでポカポカできるし、野良猫がエサをねだりに来るし、一日家にいても日が昇って暮れてという自然のリズムが感じられて通気性が良く、気分が倦むということがあまりなくなった。これはマンション暮らしをしていたら違ったかもしれず、家のつくりによるところが大きいような気もするが。以前は狭い空間のひとところにずっといると、時間感覚がよく分からなくなり、景色が固定されているため外界と断絶されているような気分になってきて、とくに何もなくてもとりあえず外に出て、無用の買い物をしてみたりしてバランスを取っていたところがあった。日々を会社内で過ごしていたときも同じ感覚だった。書いていて思ったが、庭の存在が意外に大きいのかも。有機的な自然の息づかいを感じられて、動物である人間の精神は安定するのかもしれない。つまり人と一緒に暮らした方が人間らしい生活形態を得られやすい、ということかもしれない。

・友達と会う頻度が減った。

私はもともと自分から友達に声を掛けて誘うタイプではないのだが(そういう行為が習慣づいていないので人を誘おうという発想が湧かず、一人行動が基本)、声を掛けられたらよっぽどのことがない限り断ることもない。そのため月に数回は人と会っていた。でも今は友達と会うのは月に1、2回くらいになった。これには、郊外に引っ越して友達の住んでいる場所から遠くなったから、とかいろいろ要因があるだろうが、一番の理由は、その友達の分を夫が占めているからというのが大きいだろう。パートナーというのは自分と一番気が合う存在、つまり「親友」という側面が大きい気がする。それはパートナーを得てみて初めて知ったことだ。

パッと思いついたことを挙げてみたので、もっとほかにも出て来るかもしれないが、とりあえずこんな感じだ。ちなみに、専業主婦的生活になっても結局変わらなかったのは「気になる本(漫画)があれば即買う」という習慣だった…環境が変わっても残るものが結局一番自分にとって外せないことなのかもしれない。

最近、日常の中でその存在を思い出しては思いを馳せてしまう人物が3人いる。

東村アキコの漫画「かくかくしかじか」に登場する、主人公にとっての絵の師である日高先生(実在の人物の実名は日岡先生、らしい)。「男はつらいよ」の寅さん役の渥美清。大阪都構想が住民投票で潰えた橋下さん。

日高先生に至っては、思い出すだけでパブロフの犬のように涙ぐんでしまう。

「『かくかくしかじか』ほんといい作品だな〜」とか思うより先に、日高先生の漫画絵を思い出して生理反応が起きてしまう感じ。

「描く」その1点に集約される生き方。魂の赴くままに、かつ、人としての情愛を持って生きた人。

とてもいい生き方をした人だと思う。憧れる。

渥美清については、たまたまTVで「男はつらいよ」を観て、ついこの間柴又に行ったのがきっかけ。

1人の人間としての生き方を思うと、想像を絶するほどの過酷な人生だっただろうなぁと思ってしまう。

人生を通して「寅さん」であり続けようとした人。他者のニーズを最優先にしながら生きた人。

そりゃ、生身の人間は寅さんじゃないんだから、実生活に歪みが出るよ。

その苦しみを思うと、辛い。人間の生活を奪われる生き方を選んだ人。

橋下さんは、「僕は国民の奴隷じゃない。これから自分の人生を歩みたい」と言って政治の世界から身を引くことを公言した。

独善的なキャラクターに見られやすい人だけど、公僕でいた間は己を殺して、「こうすれば世の中は良くなる」と信じるものを実現するお役目に徹していたんだと思う(さすが名前が徹)。

「僕は本来政治家ではなくて実務家なんだと思う」と言ってたけど、そうなんだろうなと思う。もっと細かく言えば、「実業家的な志向性のある、法律家としての自負を持った実務家」なんだろうな、私が思うに。

だから、ここできっぱり「政治家をやめて、自分の人生を取り戻す」という選択をした橋下さんの生き方には賛同する。

見事なくらい明晰な選択だと思う。

「辞めるなんて、この人は大阪のことをほんとに考えてないってことじゃないか」っていう声を見たけど、そうじゃないやろ。

橋下さんはまあ言ったら大阪都構想のために政治の世界にいたわけで、大阪の財政を正常化するための存在だという自己認識で政治家をやっていたわけで、「僕が提示する改革案を市民が求めてないなら、その声に潔く従いますよ、市民のために、そしたら僕という存在は要らないわけだから役から降りますよ、皆さんが求める政治を実現するために」ということだろうから。これは俯瞰の目線で「大阪のことを考えて取った、政治家としての行動」以外の何者でもない。と私は思う。

橋下さんが橋下さん自身であることを取り戻せる時間が訪れてほんと良かったなぁと心底思う。

そりゃ、自分の家族が大事だろう。のびのび弁護士やって生活する日常が大事だろう。

自分でも「もう顔もしわしわ。疲れた男になってしまった」って言ってたけど、他者のために生きることに徹するとああなってしまうんだろうなあと思う。橋下さんくらいの器がある人でもやっぱり人間だからしわがれてしまうんだろうなあ。

 

そういうわけで、やっぱり、自分の人生の手綱を握るのは自分自身であるべきで、他者に明け渡してしまう状況に陥らされるのは残酷すぎると思う。3人の男性たちが頭に浮かびながら噛みしめるように思う、このごろ。