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日々の散文と公式HP

妊娠中の人が何に関心を持っているか——自分が妊娠してみるまでそれは分からなかった。

というより、子育て本を読んで知識を蓄えたり、赤ちゃんグッズを揃えたり、生まれてくる子のための衣類を手作りしたり、栄養を考えた食事を摂ったり、マタニティ体操をしたり……生まれてくる子のことを中心に考える生活を送るものなんじゃないかと想像していた。

いざ、なってみてどうかと言うと、それは一部そうであるが、それ以外はそうではない。私の日々の関心は、案外目の前のことにある。今日はご飯何をつくろうとか、冷蔵庫にあれがなくなったから買いに行かないととか、TVやネットのニュース見て「そうやそうや」と思ったり「はあ!?何言っとんねん」と思ったり「しょーもな」と思ったりとか、好きな漫画が出たからamazonでポチるとか、庭のしだれ桜や近所の花の様子を確認するとか、庭に来る野良猫とコミュニケーションを取るとか、電力自由化でどこの会社にしようとか、携帯を格安SIMに変えようとか、お風呂場に発生する小バエを撃退したいとか、旬の内に食べられるだけ苺を食べておきたいとか、そういうことが一日の大半を占めている。

妊婦らしい活動と言えば、栄養バランスを考えてご飯をつくること、2日に1回ペースでの30回×3セットのスクワット、在宅仕事をする夫にも必要な運動と思う散歩を毎日一緒にすること、妊娠線予防のために毎日お腹にオイルを塗ること、そのときたまたま関心を持った子育て本をときどき入手して読むこと、といったところか。赤ちゃんグッズはそれなりに揃えて、そのまま置きっぱなしにしてある。毎日お腹の中で動き回る胎児の存在は感じながらも、そのことを中心に毎日を送っているわけでもない。

というのも、私の場合は妊娠期間と新婚期間が並走しているからだ。妊婦でもあるが、新婚妻でもあるので、妊娠の事実だけに集中することができない。結婚生活がまだ始まったばかりなので、妊娠生活以前に新婚生活が新鮮だし、2人だけで過ごせる期間にタイムリミットがあることが分かっているから、マイペースで何気ない2人の日常生活が貴重なのだ。のんびりしているうちに日が暮れていく似たような毎日は、子どもが生まれた瞬間からなくなってしまうものなのだ。だから今は、夫と過ごす時間を大事にする。2人で自分たちの生活を創りあげることに時間を注ぐ。赤ちゃんに関することは生まれてからでもできることだから。

ひとくくりに妊婦と言っても、その人が置かれている状況によって関心事はそれぞれなんだということを、自分の体験を通して初めて知った。ずっと妊娠を待ち望んでいた人はお腹の中の子のことばかりを考えながら過ごすだろうし、絶対に今の仕事を手放したくないと思っている人はやれるだけの仕事をやり切ることを第一に考えるだろうし、自由に遊べなくなることを惜しむ人は今のうちに遊べるだけ遊ぶことに集中するだろうし。私は、生むまでにライフワークとか仕事とかをやれるだけやろうとするだろうというイメージが自分ではあった。生まれたらなかなかできなくなるかもしれないから、何かまとまった書き物を書き切る、一作品として仕上げる、そういう自分事にギリギリまで時間を遣う妊娠生活を送ると想像していた。けど、蓋を開けてみたら全然違った。それよりも夫との日常生活を築くことの方が大事だったみたいだ。自分のことは案外自分で分かっていない。実際そうなったときの行動がすべてを物語る。妊娠生活というのは、妊婦の数だけ色豊かにあるのだ。

胎動という言葉の響きには、「厚く守られたお腹の壁の内側で胎児がうごめく」みたいなイメージがある。少なくとも妊娠前私はそういうイメージを持っていた。

だけど、実際は違っていた。戌の日のお参りに行った日の夜、初めてお腹の中がプルンッと響いたのを感じた。「あ!これが胎動だな」と確信した。健診でも「もうそろそろ胎動あるんじゃない?」と先生に聞かれていたけど、「うーん…?ドクドク脈打ってるのは感じるんですけど…」と答えて「それは胃じゃない?」と言われた。このときまでは胎動をまだ実感していなかったのだ。

お腹の中がぴくんっぴくんっと勝手に動く。私の意思とはまったく関係なく。「体の中に、自分とは別の意思を持った人間がいる!」と衝撃を受けた。自分の体なのに、自分の生理とは全然関係ない動きをする者が中にいるのだ。こんなことが自分の身に起こったのは初めてだ。しばらく私は胎動があるたびにその不思議さに一回一回驚いていた。

胎動というものは、「そろそろ動くかな?」とか期待しながらお腹を見ていても「シーン」だし、何も意識していないときにこそいきなりお腹でピチピチ魚が跳ねるみたいな響きがある、そういうものだ(実際、胎児は新鮮な魚と同じくピチピチな生き物なのだ)。スマホの動画を構えていても、まったく思い通りに動いてくれないのでタイミング良くその瞬間を撮れたりはしない。でもそれは当たり前である、他人が自分の意思に基づいて動いているのだから。子育ての予兆というものをここに感じる。

そして、どんどん育って大きくなってくると、蹴られた部分がその足の形通りに盛り上がっているのを目撃できる。この感じ、何か見たことあるなと思ったら、あれだ、Tシャツの中(?)で進みたい方向にいきなり飛び跳ねてヒロシを前のめりにさせるど根性ガエルだ。妊娠後期になって手足の蹴りの力が強まるとお腹がブルブルブルブルと地揺れを起こす。まさに地震。お腹は地球なのだ。胎児が大きくなるほど、手足がお腹のシルエットを変形させる。その部分を触ると、お腹の皮を通して胎児に触れられ、その形を感じられる。お腹の皮と子宮の壁は思っているよりもけっこう薄い。お腹にいるときから子どもとスキンシップを取れるなんて、知らなかった。

この現象を夫にも感じてもらいたくて、よくお腹を触ってもらうし、夫のお腹に私のお腹をくっつけて疑似体験をしてもらうようにしている。お腹の皮膚を通して胎児の肉の固さを感じるたびに「いるな〜」と言っている。すぐ下に胎児はいて、明らかに人間が存在していることがリアルに理解できる。

ちなみに、蹴りが強すぎて「痛い」と感じたのは1回くらいしかない。それ以外は「痛い」の一歩手前の感覚で、何と表現したらいいのか分からないけど「うおお」という感じ。月齢が進むと、蹴りの衝撃だけではなくて、むりゅむりゅ、と動くのを感じる。この例えはあまりしたくないのだけど、蛇が動くみたいな感じが近い(私は蛇がこの世で一番嫌い)。

最近は胎動が当たり前のようになってきたが、「今日もちゃんと動くかな?」と不安に思うようにもなってきた。いつの間にか動かなくなったらどうしようと想像して恐れる気持ちが出てきた。最後まで無事で動いていてくれますように。

春になって、うちの庭の花が咲き出した。自慢はしだれ桜。普通の桜よりも咲く時期が遅いので、ようやく今ちょこちょこと濃いめのピンクの花が裸だった焦げ茶色の枝に加わってきた。私が住んでいる物件は一軒家の一階部分で、毎日庭を見ながら過ごす。冬の間はいたって普通のありふれた緑の絨毯だったのが、春になって名前が分からない白い花が一面ブワッと咲いて、今は白と緑の絨毯になっている。ここに野良猫が通りがかると、図々しい性格の猫でも白い花に包まれたその姿はかなりメルヘンチック。最近はまた別の、細長い葉っぱの植物も背が伸びてきて、紫色の花が咲き始めた。

うちの庭だけでも春の芽吹きを著しく感じるのだが、近所の庭や公園で花が咲き出したのをあちこちで目撃していたので「春になってきたんやなあ」と日々実感していた。とくに近所の山の中にある公園では、少し前、木の枝に桜の花がチラッとついていたので、「そろそろ満開に近いはず」と思って最近夫と散歩がてら様子を確認しに行った。そしたら思った以上に桜が咲き乱れていて、密かに圧巻の景色をつくっていた。ここはそんなに知られた場所でもないようで、犬の散歩コースに利用してる人や子どもを遊ばせるために一緒に来る親子など、近所の人たちしか来ない、隠れ家的花見スポットになっている。なので次の日は夫とピクニック気分で焼きそばを持っていき、ベンチで花見をしながらお昼を食べた。

「花とかあんまり見てなかったけど麻里奈が花に興味があるから言われて意識するようになったよ」と夫に言われた。一瞬、「ん?興味?」と思った。たしかに私はことあるごとに咲いてる花を見つけては「見て、咲いてる」と指差して夫にそれを見るように促していた。でも、私、そもそも花にそんなに興味あったっけ?むしろない方だったような。実際、小説とかの風景描写は退屈すぎて苦手で、読み飛ばしたい衝動に駆られるページNo.1なはずだ。

よくよく考えてみると、東京にはこんなに草木はなかった。今住んでいるところは東京の隣県だが、ほとんど東京に隣接しているくらい近いところである。だけど、住宅地の様子が東京とは違う。どこの家にもいろんな種類の木が植わっていて、整いきっていない、ちょっと野性的な年季の入った庭の濃い緑が住宅地を覆うようにして風景をつくっている。だけど、東京の住宅地にはこんなに緑はなかった。そもそも庭のある家が少なかった。あったとしても敷地からはみ出していって逞しき野生のパワーを見せつけているような、本来の意味の「自然」を見ているような植物の姿はない。庭の植物は周りを気にしながら個々の家の範囲内に肩身狭そうに収まっている、そういう印象だった。東京の住宅地はあくまでアスファルトとコンクリートが主役。緑は厳密に指定された場所にしか存在することが許されてないような感じだった。

だから、花を目撃する機会が今までほとんどなかったのだ。東京で春を感じようとしたら、「緑があるのはここです」と指定されている場所に行って確認するしかない。公園とか、並木通りとか、ちゃんとそれ用に整えられたところにしかない。桜は不用意に突然現れない。椿も、梅も、こぶしも、菜の花も、キンカンも、はっさくの実も。東京で季節を感じることが乏しかったのは、私が仕事や生活ばかりにかまけていたからだけではなくて、道端に季節が転がっていなかったからだったのだ。

東京と言っても私が住んだことがあるのが23区なので、23区を外れるとまた事情が変わってくるのかもしれないが、ともかく、東京23区内は人がいすぎて一人一人が所有できる土地の面積が小さいのだろう。だから互いに気を遣い合って、人に迷惑掛けないように、はみ出ないようにしながら、肩を寄せ合い、肩身狭くいるのだろう。

23区には、余白がない。手つかずの土地がない。すべての土地に何かしらの意味付けがされている。この自然は公園ですよ、ウォーキングコースの緑道ですよ、神社の敷地ですよ、とか。だけど、今住んでいるところでは「指定保全地区」という名の、手をつけるにはちょっとめんどくさそうな竹薮の森が、歩いていると突如出現する。ドーンと大雑把に、放置された自然がそこかしこにある。こういう緑の余白に私はホッと息を抜く。東京にいたとき、どうしてもコンビニに寄らずにはバランスを取れないような息詰まり感をいつも感じていたが、それはあまりにも余白の地がなく、誰の所有地でもない、お金を払わなくても許される「居てもいい」場所が自分の部屋以外にほとんどなかったからだったのだ。

そういう意味で、東京は住む場所としては特殊な地域だ。東京を出てみて、「人工」の意味がさらによく理解できる。すでに地元びいきなのか、この先また東京に住みたいとは思っていない。今は、東京での生活はもうほかの人に任せて、余白のある日常を味わいたい気分でいる。

前に、暇ができたことによって人間のプリミティブな欲求に気付いたという話を書いた。赤ちゃんの頃から人間ほとんど変わってないという話だ。気付いたのは「あり余るほどの時間ができたから」という風に根拠づけを試みてるが、実際それが原因なのかは分からない。もう1つ考えられるのは、お腹の中にいる赤ちゃんが私に乗り移ってるんじゃないかという可能性だ。

妊娠してから赤ちゃんや子どもの気持ちをだいぶ理解できるようになった。基本、「こっちを見てくれ」「かまってくれ」って思ってるし、背中をさすってもらったりポンポンされたりすると安心するし、甘えられるだけ甘えたいし、可愛がられたい。赤ちゃんは自分で動けないけど動きたいから揺すられてると嬉しい。子どもは体が軽いから終始動き回ってる。これは人間に限らず、犬猫など動物もみんな一緒だと思う。こういう気分は、胎児と一体化しているがゆえに私自身にももたらされているような気がする。

こういう欲求を受け入れてくれる人がそばにいるせいか、赤ちゃん返りをしているような気分になることが毎日の生活の中の瞬間にある。手をつないで歩くとき、体が重いためゆっくりとしか歩けないというのもあって、親に手を引かれる幼子のような気持ちになっている。体を撫でられるときも、恋人同士というより親子関係の「よしよし」のような感覚になりとても心地良い。矢野顕子の曲で「お母さんもたまにはいいこいいこって褒められたいの」っていうような歌詞があったけど、あの曲、正直聴いたときは「おばさんが甘えたいとか、何か気持ち悪いな〜」って思っていた。おばさんの少女心とか、見せないで欲しい。けど、今は分かる。おばさんも、おじさんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、かっこつけてる若者もみんな、幼かったときと同じようにいいこいいこされたがっている、本当のところ。

それを理解するようになってから、すでにいい年の大きい体をしている夫も、ただの幼子だった頃から何一つ変わっていないんだなと思えるようになった。夫の心の内にだって、私と同じように甘えたくて可愛がられたい欲求が仕舞われているのだ。だから、私は夫にも「よしよし」を進んでする。人に対してそういう気持ちを快く認めてあげたくなったのもこれまで生きてきて初めてのことだ。私は誰の「よしよし」願望も受け付けて来なかったし、自分自身のそれを無きものにしながら過ごしてきた。そんなものは今更自分の中に埋もれているなんて思いもしなかった。だからこそ、人がそういう片鱗をちらっとでも見せようものなら素早く拒絶の意思を示してきた。「私は甘えないんだから、あなたにも甘えさせない」と。

そんなところへ、今私の体と同化しているお腹の子の心が私の心に憑依して、私の埋もれていた欲求をいとも簡単に拓かせた。そして他人の中にある欲求の存在も見抜かせた。胎児というものはそんな働きかけを母体にしているのではないだろうか。もしくは、胎児の存在をつねに感じている私の方が胎児に憑依しているのだろうか。

お腹の子の気持ちを通して自分の気持ちを知り、自分の気持ちの表現をする。見て欲しいときに「見て」と言い、かまって欲しいときに「かまって」と言い、甘えたいそぶりを見せる。ただし、これは夫に対してだけ拓かれるチャンネルであり、それ以外の人には決して見せることはない。もちろん、恥ずかしいからだ。そんな風に拓ける相手が1人いれば人生充分である。

妊娠してから13キロは増えた。測ったのは2週間前だから今はもっと増えてると思う。赤ちゃんにまつわる重さは最終的に7、8キロらしいので、残りの5、6キロは本体についたということだろう。

お腹が見た目にも目立ってきたのは7か月め頃で、6か月めくらいまでは傍目にはあまり目立たなかった。もちろん自分としてはお腹がいつもより膨らんでいるのは知っていたが、その頃着たウエディングドレス姿の写真を見ても妊婦にはあまり見えないくらいの膨らみだ。

ということは7か月め頃から一気に増えたのか、と言うとそういうわけでもない。私の場合、初期から順調なペースでどんどん増えていった。1か月2、3キロくらいのスピードで。私は食べ物関連の悪阻は全然なく、何でも美味しくもりもり食べていた。かと言って食べ過ぎていたかというとそこまででもない。食欲自体は通常体のときとあまり変わらない。もともとよく食べる方ではあるので普通によく食べていたらそれが素直に体重に反映されていった、という感覚である。普通、最終的に10〜12キロ増が目安らしいのですでにオーバーしてしまっており、さすがに「こんなんで大丈夫なのか?」と気掛かりではあるのだが、担当の先生は何も言って来ない。こないだ助産師さんに聞いたら「いや、とくに…気になるなら食べ物に気を付けてみてください」と言われる程度で、幸か不幸か全然厳しいことを言われない。私はもともと体重に変動があまりないタイプなので、病院で体重計に乗る度に「こんな体重見たことないわ……」という思いを毎回した。60キロ代とか今までの人生で未知の領域である。見た目はお腹以外のところはそこまで太った感じにも見えないので、「お腹以外のところでこんなに一体どこについたんや?」とお風呂に入る前、鏡に映った自分の体を見て毎回不思議に思っている。

が、体は実際重い。重いことによって、動くのが大変だ。まず、寝た状態から起き上がるとき、座った状態から立ち上がるとき、軽く「一念発起」の気合いが要る。そして必ず「よいしょーっ」と景気付けの掛け声をあげる。そうじゃないとやってられない。外を歩くときは、お腹を突き出してのっしのっしと地を踏むお相撲さんの気持ちになる。坂道や階段はすぐ息が上がってきてノロノロスピードじゃないと進めない。もともとややせっかち気味なので、信号や電車に間に合おうとしてすぐ走るような、キレよくシャッシャッと体を使う人間だったのに、今はすっかりのんびり屋さんになった。

体が重い→動くのに労力がかかる→体を動かすのが億劫→省エネモード→ますます太る→最初に戻る

これが、太った人の心理である。妊娠したことで、手に取るように分かってしまった。これは、太った人は大変だ。2、3キロ痩せようとする人と10キロ痩せようとする人とでは覚悟も苦労も2乗の比例、2次関数的な量の差がある。ハンデがものすごい。逆に、子どもが何故あんなに落ち着きなく動き回るのかというと、体が軽いからである、絶対。物理的な問題であって、「子どもだから」とかではない。私たちは大人になって重量が加わることにより身軽さを失い落ち着きを得てしまった。考え方に子どものような柔軟さがなくなるのも身体的な制限に由来するのではないだろうか。子どもの心になるには子どもの体が必要だ。

高齢者も同様、キレよく関節を使えないので慎重に歩かざるを得ない。これはもう、どうしようもない。「早く歩いてよ」というイライラを押し付けることは不毛の極み。ゆくゆくは明日はわが身なのだから。駅に行く度に高齢者に共感を寄せる自分がいる。我らは今同じカテゴリに括られる人種だ。

一度太ってしまったら恐ろしいループに入ってしまう。でも世の中の大多数の人は時間をかけて気付かないうちにその2次関数ループに入っていく。私はその例外になりたい。全員そうだろうけど。出産後果たしてこの体は一体どう出るか?願わくば、脂肪吸引エステのごとく、新たな生命体にちうちうとどんどん吸い取ってもらいたい。