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学ぶ母の生活と日々の散文

今私は妊娠中だ。生まれるまでもう少し。生まれるまで何が起こるか分からないのでここで書くのをためらっていたが、やはり妊娠中ならではの記録を残しておきたいと思ったのでやっぱり書くことにした。

妊娠してから知ったことが山ほどあった。自分が妊娠するまで妊娠に関してほとんど無知だったということだ。

まず、2〜4か月めくらいの妊娠初期がこんなに辛いものだとは全然知らなかった。私は悪阻がほとんどなかったにも関わらず、それでもいつも何となく一日中気持ち悪かったし、だるくてしんどかった。この「何となく」っていうのがくせ者で、「吐く」とかはっきりとした症状ではないから、へたってしまってきちんとした日常が過ごせないのは自分の頑張りが足りないからだという罪悪感があった。歩くのも、電車乗るのも、仕事するのも、家事するのもしんどくて、時間通りにきっちりと行動できなかった。でも今から思えば明らかに全然通常運行できない体調だった。というのは4、5か月めからの安定期に入ったら「何となくしんどい」のがなくなったからだ。あんな状態でサラリーマン妊婦たちが毎日満員電車に乗って会社に行って一日仕事してまた電車に乗って帰って、という生活を送っているというのが信じられなかった。ひえ〜〜〜と思った。私には到底無理だ。満員電車に乗る必要がない身分で本当に良かったけど、会社勤めしてる妊娠初期女性を解放してやれや〜怒 とも思った。この時期は本当にお腹の子の存続がかかってるので、この時期に休む制度があった方がいいと思う。安定期に入ってから仕事再開で。

電車では、とくにラッシュのときほど席を譲られることがなかった。妊婦マークが見えてないというのもあるけど、都心では優先席も普通の席と同様、空いた席めがけて座るのが当たり前になってて、「座るべき人がほかにいるかも」という配慮すら最初からしようとする意思がないみたいだった。だからマークも目に入れようと最初からしてない。それに、以前の私と同様、妊娠初期ほどお腹の子が危ないという知識もないだろうから、お腹が膨らんでないとマークついてても余計に譲ろうとは思わないだろう。「まだ膨らんでないから我慢しろ、こっちも毎日疲れてんだから座る権利ある」くらいの感じだろう。妊娠は「お腹にちょっと何か入ってるだけで、それ以外はほかの人と何も変わらない」という認識なんだと思う。まじで、妊娠体になると全然体調が違うから譲ってあげて欲しい。私も今まで配慮が足りなかったと思う。もうちょっと妊婦がいないか気を配るべきだった。これからは率先して譲る。

一昨日だったか、さんま御殿で「既婚女性vs未婚女性」みたいな主旨の番組を観た。出演タレントの扱いとしては明らかに既婚と未婚に優劣をつけていた(未婚枠に女芸人ばかりを当てていて自虐を促す演出だった)。こういう対立構造はいろんなメディアでよく見る。だいたい独身が既婚に対して引け目や劣等感を持っているような内容になっているのだが、そういう番組や記事を見ているといつも違和感がある。

なぜなら、私が独身だったとき、別に既婚者を羨ましいと思ったことがなかったからだ。だから友達の結婚に対して複雑な思いを持ったことがなく、参列した結婚式では100%祝う気持ちで友達を見送っていた。もう少し厳密に言うと、友達の結婚と自分自身とはまったく関係がないので究極的に言ってしまえば無関心、だからこそ無責任に100%「おめでとう!」と言っていた、という感じだ。

だって、その人はその人の人生の文脈の中で結婚や出産といったイベントを迎えているのであって、それは私自身の人生の文脈とは交わらない、全然別のものだからである。私自身、結婚願望はもともとあった。だけど、私の結婚はあくまで私の人生の中の1つのプロセスとして然るべきタイミングに位置づけられるものだ。他人の人生の「結婚」だけをぶった切って取り出して羨ましがる、なんていうことはちょっと脈絡がなさすぎて至難の業じゃないか?「おめでとう、本当に良かったね!でも私が今このタイミングで結婚、というのは違う。そうなっては困る」これが、人の結婚に接して自分に置き換えて考えてみたときのいつもの感想だった。

人の結婚を羨ましがる、ということは、その人の人生ごと羨ましがることと同義だと思う。そういう風にしか私には解釈ができない。世の中の人は、そんなにみんな周りの人の人生が羨ましいのだろうか?私の周りでよくあったのは、働き始めて数年、仕事もそこそこ一人前にできるようになってきて一段落、以前から付き合っていた人と30くらいでそろそろ落ち着きます、みたいなパターンだ。だけど私は30で独立したので、その時期に結婚はあり得なかった。ずっと会社に居続けてそのままやっていこうとしていたならそれくらいのタイミングで「一段落感」はあったかもしれないが、私としてはそういう人生は望んでいなかったし、ちゃんとフリーランスとしての基盤を整えてからじゃないと納得できなかった。ちゃんと「ひとり稼業としての自分」に完全になってから結婚したかった。

だけど、もし本当に「世の中の妙齢女性は人の結婚を羨む気持ちがあるのが一般的」だとしたら、みんなそんなに似たような人生経路を辿っていて、似たような人生を望んでいる、ということなのだろうか?そうなら、「私と同じように今まで歩幅を合わせてきたのに、私にはなくて、あの子にはもたらされているのは何で?」と思うものなのかもしれない。とすると、私と似たような経路を辿っている人が身近にいて、その人が自分よりも先に進んでいるように感じられたとしたらそういう思いを私もしたのかもしれない。

けど、周りにそんなに羨ましい人生を送ってる人って実際います?という話だ。職業も違えば生活スタイルも趣味指向も違うし、その人の家の事情だってある。そもそもみんなそんなに理想通りの人生を送っているか?そんなことって滅多にないと思う。みんな現実と折り合いをつけて今の人生の形になっているはずだ。そういう人生を他人がそこまで欲しがっているはずがない。私はそう思うのですが。

だから、世の中に流通しているほどには、実際独身女性たちは既婚女性に対して引け目や劣等感を持っていないと思う。そういうわけで、メディアがそういうありがちな図式を押し付けているのを見る度に「そこまでそんなか〜?」という違和感を持つのだ。その風潮を真に受けて「結婚できてる幸せな私、できてない人から羨ましがられてる」と思っている既婚者がいるとしたら自惚れも甚だしく、お門違いもいいところだ。私も過去に友達からそんなお門違いな反応を向けられたこともあるが、「はぁ?いやいや別にあなたの方が優位とは思ってないよ…」と心で思ってとくに言葉を返すことなく済ませるしかなかった。それを教訓に、私もどこかでうっかり勘違いしてしまわないように気を付けないと、と思う。人はそんなに私のことを羨ましいとは思ってないよ、と。

私は今人生で2番目くらいに暇がある。1番目は自分で何もできないがゆえに全部親に世話してもらっていた赤ちゃん時代で、その次くらいに予定のない日々を送っている。幼児のときでも保育園に行っていたし、それ以降は学校や会社に通っていたし、会社を辞めてからも仕事が日常にあった。家事や放置している日常のあれこれを完璧にすればこれまでと同じくらいスケジュールが詰まるはずだが、全然完璧にやっていないのでだいぶ時間がありあまっている。

おそらくその余裕が私に気付きを与えた。私の中で眠っているシンプルな欲求が顔を出してきたのだ。それは、「こっちを見て!」「私にかまって!」という欲求である。「Pay attention to me!」の境地である。

ふと、スマホやTVを見ている夫に「かまってくれ〜」という心境になる。名前を呼んでこちらに目を向けさせ、「かまってかまって」とジェスチャーで訴える。かまってもらうと満足。背中をさすってもらったりするととても落ち着く。欲求発生から満足獲得までの一連の行動と心の動きが赤ん坊と何ら変わりないのである。

赤ちゃんは「お尻が気持ち悪い〜」とか「お腹減った〜」とか「寒い〜」とか「寝てたのに起こされた〜」とか何か不快なことがあって泣いたりぐずったりするが、何で泣いてるのが分からない原因不明のぐずりもある。それはときどき「こっちを見てくれ〜」「オレにかまってくれ〜」「抱いてくれ〜」「そして背中ポンポンしてくれ〜」というだけの要求だったりする。実際そういう場面を見たことがある。1歳に満たない子どもを持つ友達の家に遊びに行ったとき、2人で話に高じているとその子がぐずり出す。「オレを放っておくな」と不満を申し立てているのである。「いつでもオレの方に注目していてくれよ」というのが赤ちゃんの基本姿勢なのだ。

でもそれって、赤ちゃん特有のものではなくて、実はすでに大人になっている我々も根源的に持っている欲求なのだ。みんな、自分だけを見ていて欲しいのだ。だから家庭の中で仕事や外の人間関係に気を取られて上の空でいる夫に不満を持つし、飲み会の席で別の人ばかりに視線を向けて自分に興味を示さない他人に腹を立てる。でも目の前にやらないといけないことがあったり、一筋縄ではいかない煩雑な人間関係があったりして、そんな自分の欲求に目を向けてばかりはいられない。そうしている間に、「かまって欲しい」欲求が心の底の方に隠蔽され、人から見逃され続けてナデナデされることのない日々が当たり前になってしまう。

大人でも背中をさすられると心地良い。ポンポンされると安心する。頭をなでられると嬉しい。このことに気付いて私は驚いたと同時に「人間、赤ちゃんのときから大して変わらないんだな」と呆れるような気持ちになった。いつまで経っても、老人になっても、この性質は変わることがないだろう。その部分については人間である限り成長は見込めないのだ。

だから、「かまってくれ」と訴えたら無条件に向けてくれる目とさすってくれる手を大人になってもずっと確保しておけたら、満ち足りた人生を送ることができるに違いない。大人になった私たちは、親の代わりとなるその目と手を見つける必要を本能的に感じているのだ。

芸能人の離婚の理由で「お互い多忙で生活がすれ違い、いつしか心の距離ができてしまいました」みたいなフレーズがよくあるが、これを見る度にすごい漠然とした無意味なテンプレ文のように思えていたが、結婚してからこれの意味するところがよく分かるようになった。

昨日も書いたが、夫は在宅仕事も多く、一日ずっと2人とも家にいることが多い。そうすると、ちょっとした話し合いが必要なことから何かそのときふと思ったたわいもないことまでその場ですぐ言える。TVを観ていて口から漏れて来るTVに対するツッコミなどもその場で共有できたりする。私のしている料理がいかに手間と時間がかかっているかが分かる。夫の仕事が今切羽詰まっているのだなというのも一目瞭然。何となく口寂しくてお菓子を食べているのだなというのも察することができる。お互いがお互いの状況を瞬時に理解し合え、コンセンサスが取れるのだ。お互いがアップデートな自分の状況を伝えられているとどうなるかと言うと、相手に対する不安や不満が限りなく少なくなるのだ。

たとえばよくある勤め人の家庭。妻は会社を定時に上がって子どもを保育園に迎えに行き、家で子育てと家事に追われて一日が終わるが、夫は毎日深夜まで働いて帰ってくる。妻は仕事と子育てと家事で毎日ヘロヘロ、ギリギリの毎日を送っている。なのに夫は家に帰って来てから漫画読んだりしてのんびりしている。妻としては「私は毎日こんなに辛い。なのに夫は何もしない。早くも帰ってきてくれないし、家のことに目を向けてくれない」と不満が募る。一方夫は「僕は毎日遅くまで仕事して大変な思いしてるのに、ちょっとゆっくりする時間まで奪おうとするのか。だいたいそっちがTVを見ている時間もあるのに、その間に家事とかやればいいじゃないか」と応戦する。これは仕事と育児と家事を毎日フルでやっている友達から実際に聞いた話で、私は心底彼女に感情移入し、その夫への怒りが瞬間沸騰したが、お互いの齟齬の根本原因は「お互いが毎日どんな一日を過ごしているか知らない」というところにあると思った。

「保育園に迎えに行き、子どもの世話をし、家事をし」と文字で起こせば簡単だが、それが実際どんなことをしていてどれだけのエネルギーを要するかということをリアルに感じ取ることは側で見ていない限りできない。見ていたら「TV見てる時間を削れ」なんてことは絶対言えないはずだ。一方、「会社が深夜まで残業するのが当たり前の風土で、早く帰ることなんてできる余地がない」というのも、実際に現場にいて働いているところを見ないと理解できない。夫は夫で会社生活に力の限りを尽くさざるを得ない状況があるのかもしれない。お互いがお互いの生活を見ていない時間が多すぎるから理解不足が生じ、「こちらはこんな思いをしているのにどうして理解してくれないのか」と恨みを募らせていくようになる。

これが、「生活のすれ違いにより生まれる心の距離」である。これを回避するためには、お互いの生活を合わせるようにする、つまり、一緒にいる時間を長く取るしかない。人間、長く時間を取るものに対して愛着が湧くようになっているから、家庭に時間を割くと家庭をより大事なものと思うようになってくる。そういう意味で、一日の大半を外で過ごしている人の家庭生活はハードルが高いと思う。そんなハードル高い生活を、世の中のほとんどの人が行っているのである。

よくよく考えると昔の人の生活は、農業をしたり職人仕事をしたり家で商売をしたりなど働くことと家庭生活が結びついているのがポピュラーだった。今で言うと農家や自営業のような家がそうだ。私たちの場合はレアケースで仕事は別々だけどどちらも基本在宅というスタイルだが、このスタイルが夫婦仲に一役買うものだとは予想もしなかった。本来仕事をしているシーンで家族が一緒にいる、というのは原始的で自然なあり方なんじゃないだろうかと毎日を過ごしていて思う。そういうわけで、「世の中のみんなも全員会社なんか辞めちゃえばいいのにな〜」と、会社嫌いの私(2つ前の記事参照)はお気楽に、でも実はかなり本気で思うのであった。

私の夫もフリーランスなので、外で仕事がある日以外は2人ともずっと家にいる。基本毎日2人とも家にいる夫婦って世の中的にたぶん珍しいと思う。世間の働いている人はだいたい朝家を出て夜帰ってくる。だから日中は顔を合わせていないというのが一般的な生活スタイルだと思う。(自営業の場合は夫婦ともに職場で一緒にいることが多いだろうけど。)

しかも、一日中家にいるうえに、2人とも同じ部屋の一角にだいたいいる。家全体を6分割したら、6分の1のスペースにだいたいいつも集合しているということだ。TVとこたつとソファと机がある、いわゆるリビングスペースに常駐しているのだ。普通に考えたら一緒にいすぎだ。だけど、これが私たちにとってちょうどいい、自然な間合いなのだと思う。最初は、夫の机と私の机を別々の部屋に置いていた。「見られてたら集中できないと思う」と夫が言っていたのでそうしたのだが、私はまったく自分の机がある部屋に行くことがなかった。途中で夫に「ここに机あった方が使うんじゃない?」と提案され、結局夫の机の隣に私の机を並べた。最近まで寒かったのもあり、机よりもこたつ上が作業のメインスペースになっているが、前よりは机を活用するようになった。

なんでいつもこんな近距離にいるのか理由を考えてみる。

①一緒にいてもお互い邪魔に感じない相性の良さゆえ。
②多少見られていた方がお互い作業が捗るから。
③用件があるときすぐ声を掛けられるから。
④仲良しだから。
⑤離れていたらちょっと淋しいから。

こんなところだろうか。ずっと一緒にいても支障がないうえ、どちらかと言うと一緒にいた方が居心地がいいのだ。

もともと私はひとり時間が好きな方だった。ひとり時間を充実させるやり方にも手慣れていた。人といるのも楽しいが、ひとりになるとホッとしたりもした。だからひとりの時間がないとダメなタイプだと思っていた。側にずっと誰かがいる生活を送っているなんて想像もしていなかった。

昨日夫が夜まで出掛けていたので私は久しぶりに長いひとりの時間を過ごした。それを受けて「たまにはひとりの時間も必要だよね?」と夫に質問されたのだが、「必要?……でもないかな」と咄嗟に思った自分がいた。「必要というとちょっと違うかな。ひとりで過ごすことに慣れてるからひとりでも困らないって感じかな」と答えたら、「ああ、俺も同じだな。ひとりでいたらいたでそれなりに時間をうまく遣えるってことだよね。俺もそんな感じだな」と言っていた。別に、ひとりでいることが必須条件だったわけじゃなくて、ずっと一緒にいても息苦しくならない人が今までとくにいなかったからひとりでいる時間を選んでいた、ということだったのだ。

ひとりの時間が必要かそうでないかって、自分の資質によるものではなくて案外人との組み合わせで決まるものなんだと発見した結婚生活の始まりであった。

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