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芸能人の離婚の理由で「お互い多忙で生活がすれ違い、いつしか心の距離ができてしまいました」みたいなフレーズがよくあるが、これを見る度にすごい漠然とした無意味なテンプレ文のように思えていたが、結婚してからこれの意味するところがよく分かるようになった。

昨日も書いたが、夫は在宅仕事も多く、一日ずっと2人とも家にいることが多い。そうすると、ちょっとした話し合いが必要なことから何かそのときふと思ったたわいもないことまでその場ですぐ言える。TVを観ていて口から漏れて来るTVに対するツッコミなどもその場で共有できたりする。私のしている料理がいかに手間と時間がかかっているかが分かる。夫の仕事が今切羽詰まっているのだなというのも一目瞭然。何となく口寂しくてお菓子を食べているのだなというのも察することができる。お互いがお互いの状況を瞬時に理解し合え、コンセンサスが取れるのだ。お互いがアップデートな自分の状況を伝えられているとどうなるかと言うと、相手に対する不安や不満が限りなく少なくなるのだ。

たとえばよくある勤め人の家庭。妻は会社を定時に上がって子どもを保育園に迎えに行き、家で子育てと家事に追われて一日が終わるが、夫は毎日深夜まで働いて帰ってくる。妻は仕事と子育てと家事で毎日ヘロヘロ、ギリギリの毎日を送っている。なのに夫は家に帰って来てから漫画読んだりしてのんびりしている。妻としては「私は毎日こんなに辛い。なのに夫は何もしない。早くも帰ってきてくれないし、家のことに目を向けてくれない」と不満が募る。一方夫は「僕は毎日遅くまで仕事して大変な思いしてるのに、ちょっとゆっくりする時間まで奪おうとするのか。だいたいそっちがTVを見ている時間もあるのに、その間に家事とかやればいいじゃないか」と応戦する。これは仕事と育児と家事を毎日フルでやっている友達から実際に聞いた話で、私は心底彼女に感情移入し、その夫への怒りが瞬間沸騰したが、お互いの齟齬の根本原因は「お互いが毎日どんな一日を過ごしているか知らない」というところにあると思った。

「保育園に迎えに行き、子どもの世話をし、家事をし」と文字で起こせば簡単だが、それが実際どんなことをしていてどれだけのエネルギーを要するかということをリアルに感じ取ることは側で見ていない限りできない。見ていたら「TV見てる時間を削れ」なんてことは絶対言えないはずだ。一方、「会社が深夜まで残業するのが当たり前の風土で、早く帰ることなんてできる余地がない」というのも、実際に現場にいて働いているところを見ないと理解できない。夫は夫で会社生活に力の限りを尽くさざるを得ない状況があるのかもしれない。お互いがお互いの生活を見ていない時間が多すぎるから理解不足が生じ、「こちらはこんな思いをしているのにどうして理解してくれないのか」と恨みを募らせていくようになる。

これが、「生活のすれ違いにより生まれる心の距離」である。これを回避するためには、お互いの生活を合わせるようにする、つまり、一緒にいる時間を長く取るしかない。人間、長く時間を取るものに対して愛着が湧くようになっているから、家庭に時間を割くと家庭をより大事なものと思うようになってくる。そういう意味で、一日の大半を外で過ごしている人の家庭生活はハードルが高いと思う。そんなハードル高い生活を、世の中のほとんどの人が行っているのである。

よくよく考えると昔の人の生活は、農業をしたり職人仕事をしたり家で商売をしたりなど働くことと家庭生活が結びついているのがポピュラーだった。今で言うと農家や自営業のような家がそうだ。私たちの場合はレアケースで仕事は別々だけどどちらも基本在宅というスタイルだが、このスタイルが夫婦仲に一役買うものだとは予想もしなかった。本来仕事をしているシーンで家族が一緒にいる、というのは原始的で自然なあり方なんじゃないだろうかと毎日を過ごしていて思う。そういうわけで、「世の中のみんなも全員会社なんか辞めちゃえばいいのにな〜」と、会社嫌いの私(2つ前の記事参照)はお気楽に、でも実はかなり本気で思うのであった。

私の夫もフリーランスなので、外で仕事がある日以外は2人ともずっと家にいる。基本毎日2人とも家にいる夫婦って世の中的にたぶん珍しいと思う。世間の働いている人はだいたい朝家を出て夜帰ってくる。だから日中は顔を合わせていないというのが一般的な生活スタイルだと思う。(自営業の場合は夫婦ともに職場で一緒にいることが多いだろうけど。)

しかも、一日中家にいるうえに、2人とも同じ部屋の一角にだいたいいる。家全体を6分割したら、6分の1のスペースにだいたいいつも集合しているということだ。TVとこたつとソファと机がある、いわゆるリビングスペースに常駐しているのだ。普通に考えたら一緒にいすぎだ。だけど、これが私たちにとってちょうどいい、自然な間合いなのだと思う。最初は、夫の机と私の机を別々の部屋に置いていた。「見られてたら集中できないと思う」と夫が言っていたのでそうしたのだが、私はまったく自分の机がある部屋に行くことがなかった。途中で夫に「ここに机あった方が使うんじゃない?」と提案され、結局夫の机の隣に私の机を並べた。最近まで寒かったのもあり、机よりもこたつ上が作業のメインスペースになっているが、前よりは机を活用するようになった。

なんでいつもこんな近距離にいるのか理由を考えてみる。

①一緒にいてもお互い邪魔に感じない相性の良さゆえ。
②多少見られていた方がお互い作業が捗るから。
③用件があるときすぐ声を掛けられるから。
④仲良しだから。
⑤離れていたらちょっと淋しいから。

こんなところだろうか。ずっと一緒にいても支障がないうえ、どちらかと言うと一緒にいた方が居心地がいいのだ。

もともと私はひとり時間が好きな方だった。ひとり時間を充実させるやり方にも手慣れていた。人といるのも楽しいが、ひとりになるとホッとしたりもした。だからひとりの時間がないとダメなタイプだと思っていた。側にずっと誰かがいる生活を送っているなんて想像もしていなかった。

昨日夫が夜まで出掛けていたので私は久しぶりに長いひとりの時間を過ごした。それを受けて「たまにはひとりの時間も必要だよね?」と夫に質問されたのだが、「必要?……でもないかな」と咄嗟に思った自分がいた。「必要というとちょっと違うかな。ひとりで過ごすことに慣れてるからひとりでも困らないって感じかな」と答えたら、「ああ、俺も同じだな。ひとりでいたらいたでそれなりに時間をうまく遣えるってことだよね。俺もそんな感じだな」と言っていた。別に、ひとりでいることが必須条件だったわけじゃなくて、ずっと一緒にいても息苦しくならない人が今までとくにいなかったからひとりでいる時間を選んでいた、ということだったのだ。

ひとりの時間が必要かそうでないかって、自分の資質によるものではなくて案外人との組み合わせで決まるものなんだと発見した結婚生活の始まりであった。

またさらに話は続く。

それで、もう一つ、「この社会では結婚しないと自分の人生の主権を手に入れられない」ということに気付いたことで恐れていることがある。それは、今度は私がその主権でもって自分の子どもに、これまで自分が心底嫌だと思っていたのと同じ思いをさせてしまう立場になるということだ。

これは私の超・個人的な感情で一般化できるものではないというのは重々承知なのだが、私は、会社員を7年やって、心底会社員という立場が嫌になってしまった。雇われている立場であるために、ただの一個人であることを差し置いて、その会社の人間としての発言をしないといけない、単なるひとりの人間としてものが言えない、ということにものすごいストレスを感じていた。その嫌さはトラウマレベルで、今はもう2度と会社員にはなりたくないと思っている。だから逆に、人の人生をコントロールする存在である、経営者にもなりたくない。そういう理由で、会社をつくりたいと思ったことは1度もない。自分がされて嫌だと感じていたことを自分がする側にはなりたくないから。だからフリーランスという立場がいい。組織に入りたくない。私は自由でいたいし、ほかの人も好きなようにしていて欲しい、それが理想だと思っている。これとまったく同じ論理で、結婚したことで家庭の中での意思決定権を手に入れた私が、今度は子どもをコントロールする側になってしまうのではないか、ということを恐れているのである。

これはもう、親となる限り逃れられないことなのだろう。きっとある程度諦めるしかない。できるだけ、子どもの意思を尊重する親になって、子どもが息苦しさを感じない、居心地の良い家にしたいと思う。

私がここまで思うのは、もしかしたら家にしろ学校にしろ会社にしろ普通よりも過干渉な環境に身を置くことが多かったからかもしれない。私が感じてきたようなことって世の中的には「えっそんなに?考え過ぎじゃないの?」という感じなのかもしれないなと思ったりする。世の中の人はそこまで人にコントロールされることなくやってきているのが普通なのだろうか?コントロールされる環境にいることが多かった私がちゃんと子どもに対して支配的な態度を取ることなく接することができるものなのかどうか、今はそこを心配している。

昨日の続き。

家族の中で意思決定の主権を持っている人。それは親だ。子どもは、何かを決める権利を持たず、親に従属する存在。

家庭を持ったことで、家族というものはそういう構造になっているという事実にようやく気付いた。私が今まで不本意に感じていたり、窮屈に思っていたりしたのは、ずっとこれまで私が「子ども」という立場であり続けたからだ。そして、それを克服するには、この日本という国では経済的自立を果たすだけでは足りず、「結婚」という手段を取らなければ、つまり、自分自身が家庭の中での「親」に相当する存在にならなければならないのだ。

これって、かなり理不尽な事態ではなかろうか。独身で居続ける限りは周りから自動的に「子ども」と看做されるのだから。もちろん、私のように、自分自身が精神的に「親の子ども」で居続けてしまったがために、より「意思決定権を与えるに値しない未熟な人」扱いをされる事態を引き起こしている人がこの国にはたくさんいるとは思うのだが。

今結婚しない人が増えていて、生涯未婚で生きていく人の存在感が増しているが、そういういわゆるダイバーシティな社会においては独身者に対する子ども扱いを社会の方からやめた方がいいと思うし、独身者自身も「子ども」ポジションに甘んじ続ける態度をどこかで断つ必要があるんじゃないか。そうじゃないと、いつまで経っても独身者に対する風当たりの強さと偏見はなくならず、結局結婚することでしか自己解決できなくなってしまう。そう考えると、独身者の場合、「ひとりでも一家の主」であることを認められるための儀式ーちょうど「結婚」に代わる儀式、をする慣習が根付くといいのではないか。昔で言う「元服」みたいな通過儀礼というか。「元服」とは意味が違うのだけれども。

さらに昨日の続き。

独身である限り「親の子ども」という立場から離れられないというのはどういうことだろう。独身だといつまで経っても実家と一人暮らしの私の関係は本店と支店みたいなもので、結局「同じ店」であることに変わりはない。独身者は修行した店を出て完全に独立開業した店のようには扱われない。それが「結婚していなければ一人前ではない」という風に世間では見られがちであることの表れだ。日本という国はどうもそういう文化であるらしい。何故なんだろう。外国のことは知らないけど、子どもを自立させようという意識が旺盛なアメリカとかでは違ったりするのだろうか。

一人暮らしをしている家は私が選んだ家具や生活用品、私の趣味の服や本などでつくり上げたマイワールド空間が出来上がっていたし、私自身も30を過ぎてから「自分の力で生きていく」という意識が強くなって、家事スキルしかり確定申告しかり携帯料金の大幅削減研究しかり…生活全般について何でも自力でやる「ひとり運営」力をめきめきと上げてきていた。いわばひとり会社、ひとり家庭、劇団ひとり、みたいなことに必要な力だ。だけど一方で、今から思い返せばだが、家にひとりでいるとき、何にも縛られない解放感と同時にすべて自己完結しているがゆえの所在なさ、みたいなものを感じてもいたように思う。私が当時夢中になっていた(今も大好きで新刊が出る度に買うが)漫画「東京都北区赤羽」の面白さを伝える相手もいなければ、東京のローカルな街を見に行く「街活」の面白さについて訴える相手もいない。そういう「今の私」をずっと見ていてくれる存在がいないので、一人二役で「こんな私」と「…っていう私を見ている私」を自前で演じているような感覚もあった。

話は少し逸れたが、そういった生活を続けていた矢先、今の夫と出会い、結婚する流れになった。一人暮らしは昨年終わりを迎え、2人で暮らし始めた。

2人の生活が新居で始まったとき、「これから自分たちの空間を自分たちの手でつくり上げていくんだ」という意欲のような、積極的な実感が湧いてきた。こういう積極性は一人暮らしのときにはなかったものだ。「自分だけの城」は長年を経て気が付けば出来上がっていた。そういった消極的なあり方は、「今の一人暮らしは仮の生活で、ずっとこの形で続けるつもりはない」という保留の考えがあったからだと思う。2人で暮らし始めたときは「これからはずっとこの人と一緒にやっていくこと決定」という前提のもと、自分たちの生活を築いていこうという意欲が立ち上がっていた。それは、さながら会社経営のような感覚だ。この家の主権は私たちにあって、意思決定はすべて自分たちで行う。インテリアをどう配置するか、何の生活用品を買うか、家計費はどこから出すか、何時に起きて何時に寝る生活スタイルなのかetc…実家にいた頃には一切なかった裁量がすべて自分たちのものとなった。一人暮らしをしていたときもそういった裁量はあったはずなのだが、なんせ「仮の生活」なのでその場その場の場当たり的な考えで生活を回していただけで、長期的・継続的な目線で生活を創り上げていこうという考えはなく、裁量と呼ぶには未熟でお粗末なものであったのだ。自分ひとりで自分の生活に対して裁量を振るうには、「私はこれからも自分一人だけでやっていく」というよっぽどの決意と覚悟がない限り、その場しのぎ感を拭うことはできず、人生に対する手応えは得られないのだろう。私の一人暮らしは結局、実家を逃れての一時避難でしかなかったということだ。

私の人生の主権が、私自身の手の中にようやく降りてきた。

そういう風に結婚して実感した。その実感と同時に、家族や親族もどうやら私と夫というワンセットを「実家から独立した一集合体」という風に見るようになった気がする。やっと、軽々しく口出しできない、意思を尊重すべき存在として扱われるようになった。

これが、私が結婚をしたことで毎日が快適になった理由だ。

結局は、独身という存在に対する社会や身内からのレッテルだけでなく、私自身の中にもあったひとり生活での軸の定まらなさも、実家からの精神的自立が果たせない原因であったわけだ。