奥 麻里奈ドットコム

学ぶ母の生活と日々の散文

一昨日の続き。

・都市部へ出なくなった。必要でない限り電車に乗らない。

これは仕事で外に出る機会が少なくなったというのが一番の原因。以前は新宿とか渋谷とか別に行きたくなくても行かざるを得ないことがあるのが日常だったが、今は電車自体乗ることが少なくなった。ほとんどの日が徒歩圏内をちょこまかするだけで日が暮れる。新宿とか渋谷とか行かなくても生きていけることに気付いてびっくりしている。その代わり、amazonの利用率が格段に上がった。とくに本。都市部を外れると本屋の品揃えはガクッと少なくなる。

・一日中家の中に居てもあまり気詰まりしなくなった。気分転換のために外に出ることが激減した。

結婚して家の面積が一人暮らしのときの3倍くらいになり、家の中での移動距離が長くなった。手足いっぱいに伸ばしても何にもぶつからないし、うちは一軒家の形をしたアパートなので庭があって縁側的なところでポカポカできるし、野良猫がエサをねだりに来るし、一日家にいても日が昇って暮れてという自然のリズムが感じられて通気性が良く、気分が倦むということがあまりなくなった。これはマンション暮らしをしていたら違ったかもしれず、家のつくりによるところが大きいような気もするが。以前は狭い空間のひとところにずっといると、時間感覚がよく分からなくなり、景色が固定されているため外界と断絶されているような気分になってきて、とくに何もなくてもとりあえず外に出て、無用の買い物をしてみたりしてバランスを取っていたところがあった。日々を会社内で過ごしていたときも同じ感覚だった。書いていて思ったが、庭の存在が意外に大きいのかも。有機的な自然の息づかいを感じられて、動物である人間の精神は安定するのかもしれない。つまり人と一緒に暮らした方が人間らしい生活形態を得られやすい、ということかもしれない。

・友達と会う頻度が減った。

私はもともと自分から友達に声を掛けて誘うタイプではないのだが(そういう行為が習慣づいていないので人を誘おうという発想が湧かず、一人行動が基本)、声を掛けられたらよっぽどのことがない限り断ることもない。そのため月に数回は人と会っていた。でも今は友達と会うのは月に1、2回くらいになった。これには、郊外に引っ越して友達の住んでいる場所から遠くなったから、とかいろいろ要因があるだろうが、一番の理由は、その友達の分を夫が占めているからというのが大きいだろう。パートナーというのは自分と一番気が合う存在、つまり「親友」という側面が大きい気がする。それはパートナーを得てみて初めて知ったことだ。

パッと思いついたことを挙げてみたので、もっとほかにも出て来るかもしれないが、とりあえずこんな感じだ。ちなみに、専業主婦的生活になっても結局変わらなかったのは「気になる本(漫画)があれば即買う」という習慣だった…環境が変わっても残るものが結局一番自分にとって外せないことなのかもしれない。

専業主婦的生活をしていると、日常生活の関心事がガラリと変わった。目に飛び込んでくるものが違う。独身時代にはあり得なかった行動を思いつくままに挙げていこうと思う。

・スーパーのチラシに目を通して、値下げしている食材に◯をつけるようになった。そして、忘れずに買いに行く。

こんないかにも主婦的な行動を自分がするようになるなんて思いもしなかった。しかもまたこの行為が楽しい。近所にミニピアゴというミニスーパーがあって、そこでは月1で「ミニピアゴ祭」という、一部商品がいつもより安くなる3日間の祭りが開催される。この祭りが始まる数日前に店にチラシが置かれるので、チラシを見つけたらすかさずゲットし、家に帰って赤ペンで買う商品に◯をつける作業をする。そしてその当日、チラシ片手に意気揚々と祭りに参加。しかも日によって安くなるものが違ったりするので、当然3日間ともフル参加。玉ねぎや油や缶詰など保存が効くものは1か月を見越して買いだめし、ミニピアゴ祭だけで事足りるようにする。「ミニピアゴ祭」は私の中で今一大重要イベントとして位置づけられている。

・家計簿をつけるようになった。1か月の支出を見て、何をどう削ればいいか考えるようになった。

今までは星の動きが分かる手帳だったり、自分の心を見つめるための書くスペースがある手帳だったり、手帳選びはスピリチュアルに寄っていたが、今年は家計簿一体型の手帳にして、週1ペースでレシートを記録、1か月の支出を計算している。家賃を除き、食費→光熱費→通信費の順にかかっているので、まずはにっくきぼったくり三大携帯会社からの完全脱却を図り、格安SIMへの移行を計画中。必要に迫られて携帯に1人1万弱かかるなんてほとんど詐欺。国民十把一絡げ詐欺に遭ってる状態だと思う。2人合わせて3千円+通話料分で済むコースにして大幅削減を目論んでいる。

・服をまったく買わなくなった。ありもので充分。

もともと衣裳持ちというのもあって今は差し迫って必要ないというのもあるが……家計費は私のものではないので、そこから好き勝手に自分のものを買う気が普通にしない。独身時代は「収入=全額自分のお小遣い」だけど、家計費は家の運営費であるので、それをいかに有効に遣うか、いかに無駄を抑えるか、という考えに自然となる。家計費から自分の趣味費用をむやみに出すのは無駄以外の何者でもない。そういう発想なので、ちょっと前の自分からは考えられないくらい服を欲しいと思わなくなった。

・インテリアへのこだわりがほぼなくなった。デザインより機能性とコスパを重視。

これも服の場合と似たような考えで、家は自分だけの空間ではないので、全部自分の思い通りにしようとは初めから思わない。今はお互い持ち寄った家具と新たに買ってもらった食器棚やこたつが統一感なく一緒になって、実家みたいに雑然とした雰囲気のインテリアになっている。ある意味、インテリアに関して無責任でいられる、という感もあったりする。もはや家財道具については「かわいい」とかより「これ、めっちゃ便利やん〜」っていうことに嬉しく、テンションが上がる。「こたつあったかくていいわあ〜」とか「この食器棚のおかげで食器出しやすくなったし炊飯器とかティファール置けるしめっちゃ機能的になった〜」とか「グリル鍋のおかげでテーブルで鍋できるようになった〜」とかそういうのが幸せ。新たに買ったカーテンも既製サイズの安価なもので「これでいい、これで問題ない」くらいの感じで選び、「けっこうこたつ布団と色マッチしてるやん〜」と満足。

明日へ続く。

昨日の話の続き。仕事をしている人がいくら料理が好き、と言っても専業主婦に到底及ぶわけない、という話。

何事も圧倒的な時間を投下しなければ一人前にできるようにはならないものなんだな、ということを好きなだけ料理しまくれる状況になってみて思い知った。つまりは、何かを習得するにはそれ自体を「仕事」にして集中的に時間を投下できる環境に身を置くことが必要だということ。だから料理に関して一人前になるためにはある一定期間、専業主婦になるか料理人になるかしかない。ほかの仕事をしながら余力で料理をしたところで、専業主婦と料理人が料理にかける時間に追いつけるわけがないし、むしろ実力の差は毎日どんどん開いていく。

そういう当たり前のことに今更気付いた、というのは、料理をなめていた、ということだし、専業主婦の仕事を軽く見積もっていた、ということで、それは外で働く者の驕りでしかない、完全に。

社会人的立場から専業主婦的立場に置かれたことで、私自身「社会人やってる自分」というドヤ顔が無意識に出来上がっていたことに気付いた。周りの働く男女のドヤ顔にも気付いた。

社会人側がそう来るなら、専業主婦側は専業主婦として堂々とドヤ顔をし返してやればいい。外で働いてるってことだけを根拠にでかい顔してるあいつらに分からせてやれ。専業主婦的状況に身を置く今、どっちもの見てる景色が見えて、そう訴えたくなっている。そして、私も今「毎日めきめきと料理の腕を上げていっている自分」というドヤ顔をしている真っ最中だ。

時をショートカットするように、昨年末に結婚した。実際はショートカットしたわけでもないけど、昨年前半までやりたい放題好き放題、ひとりで自由を謳歌しまくっていたので、周囲からの見え方としてはおそらくそんな感じで家庭ができた。
今は郊外の、実家みたいな雰囲気の古い庭付き一軒家のアパートで(庭は大家さんの領域だけど)、毎日のんびり、主たる日々の活動は料理、という日々を送っている。いわば専業主婦状態だが、仕事もちょこちょこしてるし人間いきなり自己認識が変わるものでもないので、専業主婦の自覚はまだない。というか、「これからは専業主婦でいこう」と思っているわけでもないので、身分が曖昧で宙ぶらりんな浪人生みたいな、モラトリアム主婦といった感じ(モラトリアム社会人とも言える……これってニートか?)。
要は、料理をする暇ができたので、毎日料理を楽しんでいるということだ。

私は同じことの繰り返しを好まない性格なので、一日昼夜2食、毎日違う料理をネットで検索してつくっている。夫にも「本当に同じものをつくらないね」と言われる。毎日何かひとつ新しいことを手をしたという実感がないと生きてる意味がないような気がする質なのだ。向上心溢れるというか、非ルーティン主義というか、飽き性というか。
一人暮らしをしていた頃、自炊をしても1回つくったものを3日かけて食べる、といった感じだったし、だから自炊に飽きて外食もよくしていたので、その頃と比べたら料理をする機会と時間が格段に増えた。10倍は増えてると思う。
だけど、毎日メニューを変えたとしても全然追いつかないくらい、料理の数は世の中に膨大にある。料理に専念する日々を送ってみて初めて気付いた。
「いくら『料理が趣味』と言ったところで専業主婦にかなうはずがありませんよ」と。

独身で専業主婦という人はいない。だから、独身であれば必然的に生活費を稼ぐ活動を主な時間の使い途として過ごすことになる(実家で家事を担ってる、とかいう状況でない限り)。そうなると、家事に投下できる時間と労力が限られてくる。というか、毎日働いてたら家事に費やすエネルギーは残らない。「家のことちゃんとできてない〜。人として欠けてる〜」という思いを沈殿物のごとくつねに心にキープさせながらこれまで生活してきたけど、好きなだけ料理に時間と労力を投下できる生活を送ってみたら、「働いてたらちゃんと料理なんかできるかーい!」と思い出しギレる気持ちになった。「これはできなくて当たり前だぞ」と。反面、「毎日毎日料理に専念できる専業主婦には到底、仕事を持つ人間がスキル面で追いつけるわけがない」と。

明日に続く。

最近、日常の中でその存在を思い出しては思いを馳せてしまう人物が3人いる。

東村アキコの漫画「かくかくしかじか」に登場する、主人公にとっての絵の師である日高先生(実在の人物の実名は日岡先生、らしい)。「男はつらいよ」の寅さん役の渥美清。大阪都構想が住民投票で潰えた橋下さん。

日高先生に至っては、思い出すだけでパブロフの犬のように涙ぐんでしまう。

「『かくかくしかじか』ほんといい作品だな〜」とか思うより先に、日高先生の漫画絵を思い出して生理反応が起きてしまう感じ。

「描く」その1点に集約される生き方。魂の赴くままに、かつ、人としての情愛を持って生きた人。

とてもいい生き方をした人だと思う。憧れる。

渥美清については、たまたまTVで「男はつらいよ」を観て、ついこの間柴又に行ったのがきっかけ。

1人の人間としての生き方を思うと、想像を絶するほどの過酷な人生だっただろうなぁと思ってしまう。

人生を通して「寅さん」であり続けようとした人。他者のニーズを最優先にしながら生きた人。

そりゃ、生身の人間は寅さんじゃないんだから、実生活に歪みが出るよ。

その苦しみを思うと、辛い。人間の生活を奪われる生き方を選んだ人。

橋下さんは、「僕は国民の奴隷じゃない。これから自分の人生を歩みたい」と言って政治の世界から身を引くことを公言した。

独善的なキャラクターに見られやすい人だけど、公僕でいた間は己を殺して、「こうすれば世の中は良くなる」と信じるものを実現するお役目に徹していたんだと思う(さすが名前が徹)。

「僕は本来政治家ではなくて実務家なんだと思う」と言ってたけど、そうなんだろうなと思う。もっと細かく言えば、「実業家的な志向性のある、法律家としての自負を持った実務家」なんだろうな、私が思うに。

だから、ここできっぱり「政治家をやめて、自分の人生を取り戻す」という選択をした橋下さんの生き方には賛同する。

見事なくらい明晰な選択だと思う。

「辞めるなんて、この人は大阪のことをほんとに考えてないってことじゃないか」っていう声を見たけど、そうじゃないやろ。

橋下さんはまあ言ったら大阪都構想のために政治の世界にいたわけで、大阪の財政を正常化するための存在だという自己認識で政治家をやっていたわけで、「僕が提示する改革案を市民が求めてないなら、その声に潔く従いますよ、市民のために、そしたら僕という存在は要らないわけだから役から降りますよ、皆さんが求める政治を実現するために」ということだろうから。これは俯瞰の目線で「大阪のことを考えて取った、政治家としての行動」以外の何者でもない。と私は思う。

橋下さんが橋下さん自身であることを取り戻せる時間が訪れてほんと良かったなぁと心底思う。

そりゃ、自分の家族が大事だろう。のびのび弁護士やって生活する日常が大事だろう。

自分でも「もう顔もしわしわ。疲れた男になってしまった」って言ってたけど、他者のために生きることに徹するとああなってしまうんだろうなあと思う。橋下さんくらいの器がある人でもやっぱり人間だからしわがれてしまうんだろうなあ。

 

そういうわけで、やっぱり、自分の人生の手綱を握るのは自分自身であるべきで、他者に明け渡してしまう状況に陥らされるのは残酷すぎると思う。3人の男性たちが頭に浮かびながら噛みしめるように思う、このごろ。