奥 麻里奈ドットコム

日々の散文と公式HP

時をショートカットするように、昨年末に結婚した。実際はショートカットしたわけでもないけど、昨年前半までやりたい放題好き放題、ひとりで自由を謳歌しまくっていたので、周囲からの見え方としてはおそらくそんな感じで家庭ができた。
今は郊外の、実家みたいな雰囲気の古い庭付き一軒家のアパートで(庭は大家さんの領域だけど)、毎日のんびり、主たる日々の活動は料理、という日々を送っている。いわば専業主婦状態だが、仕事もちょこちょこしてるし人間いきなり自己認識が変わるものでもないので、専業主婦の自覚はまだない。というか、「これからは専業主婦でいこう」と思っているわけでもないので、身分が曖昧で宙ぶらりんな浪人生みたいな、モラトリアム主婦といった感じ(モラトリアム社会人とも言える……これってニートか?)。
要は、料理をする暇ができたので、毎日料理を楽しんでいるということだ。

私は同じことの繰り返しを好まない性格なので、一日昼夜2食、毎日違う料理をネットで検索してつくっている。夫にも「本当に同じものをつくらないね」と言われる。毎日何かひとつ新しいことを手をしたという実感がないと生きてる意味がないような気がする質なのだ。向上心溢れるというか、非ルーティン主義というか、飽き性というか。
一人暮らしをしていた頃、自炊をしても1回つくったものを3日かけて食べる、といった感じだったし、だから自炊に飽きて外食もよくしていたので、その頃と比べたら料理をする機会と時間が格段に増えた。10倍は増えてると思う。
だけど、毎日メニューを変えたとしても全然追いつかないくらい、料理の数は世の中に膨大にある。料理に専念する日々を送ってみて初めて気付いた。
「いくら『料理が趣味』と言ったところで専業主婦にかなうはずがありませんよ」と。

独身で専業主婦という人はいない。だから、独身であれば必然的に生活費を稼ぐ活動を主な時間の使い途として過ごすことになる(実家で家事を担ってる、とかいう状況でない限り)。そうなると、家事に投下できる時間と労力が限られてくる。というか、毎日働いてたら家事に費やすエネルギーは残らない。「家のことちゃんとできてない〜。人として欠けてる〜」という思いを沈殿物のごとくつねに心にキープさせながらこれまで生活してきたけど、好きなだけ料理に時間と労力を投下できる生活を送ってみたら、「働いてたらちゃんと料理なんかできるかーい!」と思い出しギレる気持ちになった。「これはできなくて当たり前だぞ」と。反面、「毎日毎日料理に専念できる専業主婦には到底、仕事を持つ人間がスキル面で追いつけるわけがない」と。

明日に続く。

最近、日常の中でその存在を思い出しては思いを馳せてしまう人物が3人いる。

東村アキコの漫画「かくかくしかじか」に登場する、主人公にとっての絵の師である日高先生(実在の人物の実名は日岡先生、らしい)。「男はつらいよ」の寅さん役の渥美清。大阪都構想が住民投票で潰えた橋下さん。

日高先生に至っては、思い出すだけでパブロフの犬のように涙ぐんでしまう。

「『かくかくしかじか』ほんといい作品だな〜」とか思うより先に、日高先生の漫画絵を思い出して生理反応が起きてしまう感じ。

「描く」その1点に集約される生き方。魂の赴くままに、かつ、人としての情愛を持って生きた人。

とてもいい生き方をした人だと思う。憧れる。

渥美清については、たまたまTVで「男はつらいよ」を観て、ついこの間柴又に行ったのがきっかけ。

1人の人間としての生き方を思うと、想像を絶するほどの過酷な人生だっただろうなぁと思ってしまう。

人生を通して「寅さん」であり続けようとした人。他者のニーズを最優先にしながら生きた人。

そりゃ、生身の人間は寅さんじゃないんだから、実生活に歪みが出るよ。

その苦しみを思うと、辛い。人間の生活を奪われる生き方を選んだ人。

橋下さんは、「僕は国民の奴隷じゃない。これから自分の人生を歩みたい」と言って政治の世界から身を引くことを公言した。

独善的なキャラクターに見られやすい人だけど、公僕でいた間は己を殺して、「こうすれば世の中は良くなる」と信じるものを実現するお役目に徹していたんだと思う(さすが名前が徹)。

「僕は本来政治家ではなくて実務家なんだと思う」と言ってたけど、そうなんだろうなと思う。もっと細かく言えば、「実業家的な志向性のある、法律家としての自負を持った実務家」なんだろうな、私が思うに。

だから、ここできっぱり「政治家をやめて、自分の人生を取り戻す」という選択をした橋下さんの生き方には賛同する。

見事なくらい明晰な選択だと思う。

「辞めるなんて、この人は大阪のことをほんとに考えてないってことじゃないか」っていう声を見たけど、そうじゃないやろ。

橋下さんはまあ言ったら大阪都構想のために政治の世界にいたわけで、大阪の財政を正常化するための存在だという自己認識で政治家をやっていたわけで、「僕が提示する改革案を市民が求めてないなら、その声に潔く従いますよ、市民のために、そしたら僕という存在は要らないわけだから役から降りますよ、皆さんが求める政治を実現するために」ということだろうから。これは俯瞰の目線で「大阪のことを考えて取った、政治家としての行動」以外の何者でもない。と私は思う。

橋下さんが橋下さん自身であることを取り戻せる時間が訪れてほんと良かったなぁと心底思う。

そりゃ、自分の家族が大事だろう。のびのび弁護士やって生活する日常が大事だろう。

自分でも「もう顔もしわしわ。疲れた男になってしまった」って言ってたけど、他者のために生きることに徹するとああなってしまうんだろうなあと思う。橋下さんくらいの器がある人でもやっぱり人間だからしわがれてしまうんだろうなあ。

 

そういうわけで、やっぱり、自分の人生の手綱を握るのは自分自身であるべきで、他者に明け渡してしまう状況に陥らされるのは残酷すぎると思う。3人の男性たちが頭に浮かびながら噛みしめるように思う、このごろ。

ライターと名乗っておきながらこんなテーマで書くのはいかがなものか、という感じですが。

「ライター」を職業にしている人は皆どこかで感じていることではないかと私は密かに思ってるのですが。実際はどうなんでしょうか。

 

ライターの仕事としてベーシックなものは、「自分以外の誰かによる営み、あるいはその人自身を伝える」仕事です。

一般に言われる取材やインタビューです。

つまり、他者を伝える、これがライターのお役目。

イメージしてみてください。

これが普段の生活の大半を占めているとすると。

右隣の人から受け取ったものを左隣の人に手渡す作業、これをずっと繰り返してるイメージです。

その間、私は透明人間。右から吸い取ったものを左へ渡す。

イタコになっているわけです。いわゆる「媒体」ですね。

イタコをしている時間とはどういう時間か?

「自分自身を生きていない時間」ということです。

ライターの仕事の種類にもよりますが、こういったイタコ率が高い仕事が日常的な営みとなると…「自分はいつも当事者でない」そういう感覚が募ってきます。

もちろん、書き手のフィルターというものは必ずつきまとうので、純度100%の他者になりきる営みとは違うのですが、限りなく高い%で「他者を生き」ている。

 

何か、素晴らしいお店をつくった人がいたとして、そのお店の取材に行った。

その人の話を生で聞くと、リアルな感触を伴ったその人の経験を追体験できるわけです。生の言葉というものは、それはエキサイティングなものです。

だからイタコって実はすごく面白い。のめり込みやすい行為です。

だけど、お店をつくったのはあくまでその人。私は何の手も下していない。

常にそういう立場に立たされる。

 

物事を伝えるということは社会に必要とされていることですし、すごく意味のあることだと思います。

でもいつも傍観者でいる自分。人の人生をなぞるだけの自分。それって何なんだろう?という疑問が頭をもたげてくる。

何かしらの実感が欠落している。

自分の手で直接土に触れていないような。

それが、ライターという仕事について回る虚しさです。

私は、この虚しさを看過し続けられないように感じてます。

何度も言いますが、イタコ率(要はシンクロ率)は仕事の種類によるので、これがライターという仕事のすべてではありません。

だけど、私は美容業界誌をつくっていた前の職場で編集者をしていた頃から、自分の手で人の髪を切っている美容師の人たちを前にして「自ら手を下していない自分は何なんだ?」という思いをそこはかとなく持っていた。

(だから、「自分も切ってみよう」とウィッグの髪を切る練習をしていたことも瞬間的にだがあった。)

 

他者を生きる、それは役者の仕事と同じ営みなのかもしれないなと思います。

だとしたら、役者の人はそういう疑問を自分に抱いたことはないんだろうか?

役者の人は自分の体を丸ごと使う。私は指先だけを動かす。その身体性によってもたらされる生命実感が違うのでしょうか?

役者になったことがない私には到底分からないことだけど、とりあえず役者の人はその営みにまったく疑問を持ってないように見える、むしろ生き生きとした顔で全肯定しているように見える。

それは私がそう見てるだけなんでしょうかね。

 

話が逸れました。

だから私は、ライターという仕事は今後も続けるけれども、「ライター」という存在そのものになろうとする考えからは最近脱却しつつあります。

「ライターの自分」で人生を埋め尽くしたくない。

ライターという側面を持つ一生活者。それが一番しっくりくるあり方です。

生活者として、ちゃんと土に触れていたい。

そうでないと、何か大事なものを損なった人生になってしまうと私の体のどこかしらが直観している。

だから私は今、「働く」あり方を再構築しようとしています。

より「自分の人生を生きている」と感じられるあり方に。

 

それはどんなあり方なのか?また追々話します……って、前も言った気がしますね。

気付いてしまった。

というか、前々から薄々気付いてはいたけど、心が認めることを拒否してきたというだけだが。

 

私が1日に書ける原稿は1本だけである。

ライターという「書く」ことを生業にしている職業であるにも関わらず。

 

無理矢理やればできないこともないかもしれないけど、その場合おそらくものすごく精神をすり減らすことになる。

1本というのは、1つのテーマについてまとまった分量、という結構アバウトな意味合いだけど、2テーマになってしまったとたん、心がへたりにへたってしまう。

なぜかと言うと、それは分からない。

はっきりとは分からないけど、まとまった文章を書くということはものすごく集中力を要請されることで、一度それを使ってしまうとあとは集中力の電池切れになってしまう、そういう感覚がある。

朝から晩まで書き続けることは不可能なのだ。

ということは、「書く」ことをライフワークにする以上は生きている意味が分からなくなるような内容の仕事ばかりで埋め尽くすわけにはいかないということであるのと同時に、「書く」ことだけで生計を立てようとすることにかなり無理があるということだ。というのは、ライターの仕事というものは、一筆走らせれば数百万を引き出せるような、マジックが使える種類の仕事ではないからだ。かなり実直なお値段設定になっている種類の仕事だ。

「1日に何本も書けない」このことを認めてしまうとライターという自負が危うくなってしまう。だからこれまで、その事実から目を背け続けてきてしまった。

だけど、今は言える。

それは、私が「1日に1本しか書けない」ことを前提に、仕事というもののあり方を構築していけばいいんだ、という風にようやく思えるようになったから。つまり、「書くことは1日に数時間しかできない、それ以外の時間は書く以外の仕事をすればいい」ということだ。

その具体的な内容についてはまた別の機会に…。

 

ライターは、毎日毎日朝から晩までずっと書き続ける存在。

知らず知らずそんな風に定義して自分で自分をグルグル巻きにして縛り付けていた、ライターという呪縛を解くことが、つい最近になってようやくできたのだ。

今までフォローしてたサブカル界の住人たちのTwitterフォローを少し前から解除していきました。

好きな書き手の更新情報を知りたくてフォローしていくと、サブカル界隈の人たちの動向が自然に入って来るような状況になる。なぜならサブカル的要素が私にもあるから。

すると、サブカル界隈の人たちの交友関係とか、サブカル周辺の今の空気感とかを必要以上に知ってしまうことになる。私の把握してる限りでは今フェミニズム的な論争が渦巻いてます。こじらせ恋愛とか男性社会へのバッシングがトレンドと言っていいかもしれない、おそらく。

それ自体は私も共感・同意するんですけど、そういった論調のRTの集積ばかりを見ていると、なんだかそれが私にとってもライフワークとしているテーマのような気になってきたりする。

そしてサブカル界隈の人たちのネガティブ言動に気持ちが毒されてくる。

世の中のメインストリームへのアンチ精神が文化の源泉になっているからか何なのか、サブカルってルサンチマンの含有量が高いんですよね。

そしてそのルサンチマンを自己分析的に、あるいは批評的にどんどん深堀りしていくんですよ、分析に分析を重ねて。

私もその人間心理のあぶり出しに「そっかぁ〜なるほどなぁ」とすごく感心したりするんだけど、分析しまくった先に「……はて?」という気分になってしまう。

恨みつらみを言い募るように、あるいは内省に内省を重ねるようにうじうじ分析し続けて、何が得られるんだろう?

あるところまで行くと、このサブカルの流れについて行くことに対して懐疑的になり。

そしてはたと「私、そもそも恋愛とかフェミニズム的なことにそこまで関心あったっけ…?」と我に返りました。

一つ興味あるテーマではあるけど、私の一大ライフワークではない…そんなことより私、いろんな街に行って街の様子を見たいなぁ。

そう思って、好きだった書き手の人たちのフォローを思い切ってどんどん外しました。

一緒にドツボにはまって、精神が不衛生になってってるように思ったから。

あと、サブカル界隈ならではの内輪ノリが行き過ぎると嫌気が差してしまう。まあ、これはサブカルに限らずTVの中でもよく見かける現象だけど。

そういうのを目に触れずにいると、やはり前に比べて日々がすっきりしてきた気がします。

 

好きだけど、毒の含有量も高い、サブカル。だからこそ楽しい、サブカル。

純正100%のサブカル女ではない私にとっては取り扱い注意の領域です。